杏梨ちゃんは愛されたい

旅のあとの週末 6月4日

 次に目を開けたときにはもう土曜日の昼過ぎ。自宅のベットは、高級ホテルのベットよりも心地良くて安心する。夢の中にもケイが出てきたので、朝になって杏梨は恥ずかしくなった。


 冷蔵庫には食材は殆ど入っていない。旅行前に整理したので当然だ。買い物に行かなくてはいけない。


 日本に帰ってきた途端に『~しなくてはいけない』が戻ってきている自分に気づいて、杏梨は1人で苦笑した。気楽な旅をしているときと違うのは当然だけれども。


 金田さんに

【タイから帰ってきました。お土産を渡したいのでご都合良いときに会いたいです】

 とゾウの写真付きでメッセージを送る。乗っているところも撮ってもらったが、ほぼ素っぴんでラフな格好の自分を見られたくなかった。


 次はそうたに

【タイから帰ってきた。そうたの良いときにお土産渡しに行っていい? 】

 とゾウに乗って満面の笑みの自分の写真を送った。そうたならこの笑顔を見て安心してくれると思ったから。


 コーヒーを飲みながら少し待つ。金田さんからすぐ返事が来ないのはいつものことだから気にならない。でも、返事の早いそうたからも返信が来なかった。仕事が休みの土曜日なのに。昨日自分が帰ってきたのは分かっていると思うのだけれど。


 自分の帰りを待っていてくれる人がいるような気がしていたけれど、現実は甘くない。賑やかで楽しい夏祭りの帰り道のように、終わってしまった楽しさの余韻を噛み締める。


 戻ってきたのだ日常に。明後日には仕事に行かなくてはならない。


 仕事は『~しなくてはいけない』の連続だ。今から考えても仕方がないのに、杏梨は気持ちが落ち込んでいくのを止められない。


 もっとやり甲斐を感じて、目標にして掴んだ仕事だったならこんなことは思わなかっただろうか。


 勉強して良い大学を出てそれなりに名前の知れた企業に入れたことは満足だ。でも、そもそも自分は何を目標にしていたのか。


 勉強して良い成績をとると褒められた。

 綺麗にしてダイエットも頑張るとちやほやされた。

 努力すればする程、周りの自分への期待は高まっていって、いつしかそこから逃げられなくなった。


『岡野さんはいいなー。美人で』

 自分がどれだけ我慢して努力して手に入れた見た目なのか想像もする気もないのに軽々しく言わないで欲しい。綺麗になりたければ自分も頑張ればいい。


『何でも出来ていいわねー』

 最初から出来た訳はないだろう。積み重ねた努力をないもののように扱うのはやめて欲しい。


『男の子にモテていい気になってる』

 なってない。好きでもない男に自宅前で待ち伏せされる気持ち悪さが分かる?相手からしたら好意でも恐怖を感じたことが何度あるか。


『人生得してるよね』

 余程恵まれた人以外は、綺麗に泳いでいる水面下で必死に脚を動かしているもの。必死に頑張って手に入れたものをチートのように扱わないで欲しい。


 言われた言葉に言い返したいことは何度もあった。でもできなかった。言った後の自分に更に何を言われるのかこわくて。


 必死に頑張って、自信の鎧を張り付けて、見栄をはって歩いてきた杏梨がなりたかったもの。


 それは――


 ブーブーブー


 テーブルに置いたスマホが鳴る。丁度思い浮かんだ人の名前が見えて、すぐ電話をとった。


「もしもし」

「もしもし、杏ちゃん帰ってきたー? 」


 岡野幸子 スマホ画面にはそう表示されている。


 杏梨はお母さんみたいになりたかった。

 幼い頃からずっと。

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