挑戦 6月2日④

 どくんどくん……


 自身の心臓の音が大きく聞こえる。杏梨は迷っていた。開けた筈のパンドラの箱は閉めることが出来たから。


 閉めることが……


 それに気が付くと、目の前の猛獣はそこまで凶暴には見えなくなってきて、杏梨はつい笑ってしまった。


「ふふっ」

「おい、このタイミングで笑う? 」

 杏梨につられてケイの表情もゆるんだ。


「だって……ケイさんて、いい人ですよね。すごく」

「あっ? 」

 ケイは杏梨を睨んできたが、その目を杏梨はもう恐いとは思わない。


「そもそも、変な人から助けてくれたし。助けてくれたときも、わざわざ注意してくれたし。連れて行ってくれたお店も安かったし。この部屋に入るときも、さっきだって、何回も私が後で後悔しないように声を掛けてくれましたよね? いい人以外の何者でもないです。別にただ面白がって、楽しむだけならもっと楽な方法があった筈ですから」


 にこにこ笑う杏梨にケイは苦笑した。


「そう思いたいならそうすれば? で、どうすんの? 」


 意思の強そうな瞳に、通った鼻筋、肉厚の唇、自信に満ち溢れた言葉。その顔が歪むのを杏梨は見たくなった。

 但し、自分の手持ちカードはよく考えて出さなければこの駆け引きには勝てないし、彼の顔色を変えることは出来ないだろう。


「実践お願いします。でも、私は貴方から『貴方を虜にする方法』を教わるんじゃなくて、まずは私の実力で貴方を虜に出来るか試したい。

 ケイさんはとても魅力的で私の周りにはいなかったタイプだから、貴方を落とせたらそれだけで自信になる。自信は魅力に繋がる。貴方の言った通り『割り切りと覚悟』も出来ると思う。

 日本で同じことするかっていったら絶対しないから、こんなチャンスは2度とないんです。

 私は全力で貴方を落としにいきます。覚悟してくれますか? 」


 先程とは様子が変わり、力強い杏梨の声にケイは面白そうにニヤついた。


「別にいいよ。やれるもんならやってみろ」

「ありがとうございます。やっぱりケイさんはいい人ですね。

 では、それについてお願いが。全力で他の事を気にせずにしたいので、場所を変えませんか? ホテルを2人で1部屋取ります。私がタイから帰るのは明日の14時。それまで挑戦させて下さい」


 ケイは直ぐには返事しなかった。スマホを取り出し何か確認した後、口を開く。


「思ってたより馬鹿じゃないな。それでいいよ」

「では、またホテルで会いましょう。

 えっと、ただ……その、ケイさんここって何処ですか? あと、ホテルは何処がいいですかね? 聞いちゃってごめんなさい」


 大人な会話をしていたのに、急にもじもじし始めた杏梨に、ケイは吹き出して笑い始めた。


「そういや迷子だったな。駅まで連れてってやる。ホテルも空港までいくのにアクセスいいところがいいだろ? 調べてやるからちょっと待ってろ」

 スマホで調べ始めたケイは、杏梨から見たらただの面倒見の良いイケメンだった。


「ちょっと高くてもいいですよ」

 杏梨はそう言って、ソファーのケイの隣に座り、スマホを覗き見た。


「今ここで押し倒してやろうか?」

 目線はスマホのまま、ケイが呟く。


「楽しみはあとにとっておきましょう? 」

 狩猟モードに入った杏梨は負けじと返し、ケイの耳元に口を近づけ何か囁く。


「ああ、そうだな。んじゃ、駅行くときに」


 現時刻は14時半。

 ケイと杏梨は21時にホテルで待ち合わせ。


 21時、万全の体勢を整えた杏梨は、ホテルのロビーに降りていった。

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