出発 5月28日

【注意】タイ旅行の内容や飛行機のこと等、調べはしましたが、作者の記憶は大分古いので、実際のものとは異なることが多々あると思います。実際のものではなく、あくまで物語上のタイ旅行と思いながら読んでいただければ幸いです。



 杏梨は飛行機の中にいた。2人掛けの席の窓際だ。

 旅の準備は、「準備進まない」と杏梨が嘆いていたら、丁度電話をかけてきた母親によってその概念をばこんっと打ち砕かれた。


 ◆


「あら杏ちゃん、何のために旅行行くのー?何だか楽しくなさそうねー」

 杏梨の母親、幸子はいつも和やかだ。タイに旅行行かなきゃなのに準備が進まないといったら、こう言葉を返された。


「1人で行くなら何にも気にせず、お金と自分だけ持って行けばいいじゃなーい?」


 持ち物は自分。なるほど。あとはパスポートは必要だと思った。


「安全だけ常に確保して、使ってもいいだけのお金だけ持って、お金はあっちで使って、後は帰りに自分だけ持って帰ってくればー?ふふ」


 母は良い意味で色々なことに鈍感で気にしない。


「だって、行って何するかとか必要なものとか」

 杏梨は食い下がった。1人で旅行はしたことがないので不安だった。


「行ってから決めても、決まらなくても大丈夫よー。必要なものなんて、そこに暮らしてる人がいるんだから全部そっちにあるわよー」

 母は「相変わらず杏ちゃんは考えすぎのお馬鹿ちゃんねー」と笑った。


「旅行はしなきゃいけないものでも、楽しまなきゃいけないものでもないのに、何でも『しなきゃだめ』ってつけちゃうんだからー。

 ただ、行って、帰って来たら?それだけで十分よ」


 母はいつもとても明るく、杏梨が悩んでいることをシンプルにふんわりと軽くしてくれる。


「お土産はいいから、タイにいる皆さんが『微笑んでたか』だけ今度教えてねー」


 母、幸子は幸せそうな笑い声を残して電話を切った。


 そこから杏梨の旅行準備は進み、持ち物と心はとてもシンプルで軽いものになった。


 ◆


 杏梨は窓越しに外を見た。空は晴れていて、旅立ちには丁度良い天気に思えた。飛行機でバンコクまで6時間程だ。


 外を見ていると、隣の席に人が座ったのが分かった。いつもは友達だったり、恋人だったり、家族だったりと一緒なので、長時間知らない人が隣に座るという状況は杏梨は初めてだった。


 ちらりと横を見ると、日に焼けた顔の杏梨より少し年下位の青年が座っていた。目が合うと、にこりと笑う顔がとても爽やかだった。


 彼はそのまま「こんにちは、日本の方ですか?」と話しかけてきた。その話し方と発音で彼が日本人だと分かった。


「はい、そうです」

 英語は話せないし、この人が日本人で良かったーと思いながら、杏梨は言葉を返した。


 彼の名前は本橋樹といった。20歳の大学生だった。


彼は出会って3分の人間に、

「杏梨さん、めっちゃきれいっすね」

とじっと目を見て、恥ずかしげもなく言い放った。


このとても真っ直ぐで明るい彼と、杏梨は飛行機内の時間を過ごすこととなる。

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