てあしはふたつある

雨山

ふかいところで指さしてる

 おれには年の離れた兄がいる。今年二十六になる彼は、大手企業に就職して以来、滅多に家に帰ってこない。都内で一人暮らしをしているのに、おれは観光に行ってさえ兄の部屋に泊まったことがない。

 そんな兄が、恋人を紹介したいと言って帰って来るらしい。両親は今からそわそわとしているし、おれは部活の練習試合が被らないか、そればかりが気になっていた。たぶん、おれは兄の彼女という人に会いたくはない。

 いっそ誰かの葬式にでも呼ばれたかった。この年じゃあ結婚式などには呼ばれないから、仕方ないなと逃れられるなら。

 開け放した窓の向こうでは、切り落とした木の幹に密集するみたいに蝉が集まってきて鳴いている。昨年の冬頃、あまりにも庭が狭く見えるからと大きな木を一本、切り株にしたのに、蝉にとってはあまり関係のないことらしかった。例年通りに羽化し、どこからともなく番いにやってくる。

 暑い日が続いている。短く切り揃えた頭髪のなかを通って、汗が一筋滑り落ちていった。あの日も確か、このくらいの暑さだった。いや、記憶の上では今日以上に暑かった。そうでないと説明のできない日だった。

 ずっと忘れられないことがある。兄にとっては戯れめいたものだったのかもしれないけれど、おれにはそうでなかった出来事。幾度寝て起きてもずっと忘れられず、胸を塞ぐように根付いている。まるで呪いだ。

 

  真夏の暑い日だった。蝉がわんわんと鳴いては黙り込んでを繰り返していて、おれはそれがおかしくて兄に笑いかけたのを覚えている。兄は、黙り込む蝉たちは食事中だから静かなんだろと結論付けた。我が家では、食事の時間はなるべく話をしないと決まっている。はしたないと母が叱るからだ。蝉もそうなのかと思うと、おれにはますます面白いのだった。

 夏休みも真ん中ほどのその日は、家に親がいなかった。共働きの両親が昼間家にいること自体が少ないけれど、その日はたまたま誰かの葬式で出かけて行っていた。

 葬式。葬式だって、悠一。おれの葬式で、お前だけは泣いてくれよ。

 遠方の親族の葬式に出かけると言った両親の背を並んで見送るとき、兄はおれに囁くようにそう告げた。あまりの密やかさに、ぞっとしたものだった。

 兄はおよそ死とは程遠い人物だった。バスケットボール部でキャプテンをつとめる、溌剌として気の強い人だった。生気に満ち溢れている、と表現したらいいのか、とにかく、いつまでだって元気に生きていそうな人だった。おれはそんな兄が自慢だった。兄に憧れて同じ球技を始めたのだし、学校だって熱心に勉強し、偏差値の高いところを受験した。後を追うようにして入った学校では、兄のおかげで教師陣の覚えもめでたかった。

 おれにとって、兄は映画のなかのスーパーマンよりもずっと超人だったのだ。出来のいい人なのに驕ったところがなく、後を追う弟のおれとも公平に接してくれた。

 今、おれはあの日の兄と同じ年齢だ。あの日の兄と同じだけの日々を生きてきた。今の兄は当然それよりもいくつか先を行っているけれど、とうとうきてしまったこの年に、おれは人知れず怯えていた。 

 

 あの日はひどく暑かった。猛暑日というやつで、しかし兄とふたり、エアコンもつけずに時折入ってくる窓からの風に肌をさらしていた。おれは十になりたての頃で、兄は十八だった。

 家を出た親が残していったのは、冷蔵庫のなかに仕舞われた昼食の冷麺だった。おれたちはそれを知っていたけれど、とても食べる気にはならなくて、昼間が過ぎてもただぼんやりと窓の向こうを眺めていた。

 兄は受験生だったのに、参考書のひとつも開かずに、ぼんやりと外を眺めるおれに付き合って寝転がっていた。兄の部屋は二階にあった。二階建ての小ぢんまりとした一軒家で、兄とおれの部屋、それから生まれるはずだった妹の部屋は二階にあった。

 兄の部屋は年頃の少年にしては殺風景で、おれにはそれが不思議でたまらなかった。欲しいものはないのか、憧れるものはないのか。おれの部屋はもので溢れていて、壁にだって好きなバスケットボール選手のポスターが貼られていた。そんな部屋を見ればわかるように、兄は掴みどころのない人でもあった。褒めるときに、頭を撫でてはくれなかった。

 ドン、という音が聞こえたとき、おれはその光景をしっかりと見ていた。見ていたはずなのに、記憶にはない。

 それは野良の子犬が車に撥ねられた音だった。その子犬はしばらく前から団地内をうろついていて、誰からともなく餌を与え、みんなで飼っているような犬だった。当然いけないことなのだけれど、暗黙の了解というやつだったのだろう。誰も飼うほどには愛情も余裕もなかったから。

 兄はすぐに起き上って、おれの隣から外を覗き込んだ。すでに車はおらず、横たわる茶色のそれだけが残されていた。蝉が激しく鳴いていて、あの音は耳の錯覚だったんじゃあないだろうかとも思った。兄に何と言えばいいのかわからないまま、目が離せずにいた。

「悠一。葬式をしなくちゃいけない」

 兄はそう呟き、おれの両目を手のひらで覆った。兄の手はその体躯に違わず大きくて、ボールを必死に扱った跡のある固い手だった。しっとりと汗ばんでいて、咄嗟に伏せたまぶたに吸い付くようだった。

 数瞬、兄の手のひらを感じていた。どうしてかいつまでもそうしていたかった。次に風が吹き抜けたのは、兄が手を離したからで、だから仕方なくおれは目を開けた。

 ベッドから降りて、兄はどうやら外へ向かうようだった。慌ててついていくおれに、兄はすこしだけ意外そうに眼を丸くした。おれにはそれこそが意外に思えた。兄の後ろをついていかなかったことのない子どもだったから。

 軋む階段を、いつもなら気にせずに降りるのに、その日はふたりして音を立てないように歩いた。ドアのガチャリという音すら恐ろしくて、おれは兄のTシャツの裾を引っ張った。

「こわいことはないよ。ちょっと穴を掘ってあれを埋めるだけだ」

 丁寧に指を一本ずつ外しながらそう言った。兄は、野良の子犬のことを《あれ》と呼んだ。部活帰りにいつも撫でてかわいがっているのを、知っていた。

 《あれ》は道路に血だまりを作っていた。大きなものではなかった。素手で《あれ》をつかみ上げると、兄はまっすぐに自宅の庭に運び込んだ。それからバケツに水を汲み、道路の血だまりを洗い流した。ほとんど洗い流せていなかったけれど、いつか消えるから安心しろと笑いかけて見せた。

「悠一は蝉を拾ってきてくれ」

「わかった」

「大きいのがいい」

「大きいの、が、いい」

 木々の生い茂った我が家では、蝉の死骸などそこらじゅうに落ちていた。おれは言われた通り、なるべく大きい、羽の透明な蝉を選んで拾った。なかにはひっくり返っているだけで生きているやつもいて、その見極めは難しかったけれど、おおむね順調に事は進んだ。生きているのか死んでいるのか、十のおれには区別がつかないことが多かった。

 兄は倉庫から持ち出したスコップで、庭の隅に穴を掘っていた。血の止まらない《あれ》のまわりには、黒々とした蠅が渦を巻いていた。恐ろしい光景だと思った。おれも死んだらああいう風に、穴を掘って埋められるのか。

 おれは汗をだらだら流しながら蝉を集めた。兄の方はもっとずっと大変そうだったのに、汗と泥にまみれてさえ、一度も止まることなく動き続けていた。何かに追い立てられているかのような働きぶりだった。

 その日から遡るのは数日前のことで、おれは地獄についての本を読んでいた。そこでは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが、終わらない石積を課せられていた。兄の無心な横顔を盗み見て、おれはそのページの挿絵を思い出していた。後ろには恐ろしい鬼がいて、積んだ石を崩して回る。

「悠一」

 名を呼ばれ、兄がすっかり《あれ》を穴のなかに仕舞いこんでしまったのに気が付いた。蠅や蛆の湧いた《あれ》を、兄はなんのためらいもなく運び込んだ。

 近づいていくと、ムッとした独特な臭いが鼻についた。意識とは別のところで、反射的に顔を顰めそうになったけれど、目を逸らした方向に兄がいて、その兄がまっすぐに穴のなかを見下ろしていたので、おれはどうにか無表情を取り繕ったのだった。何も感じていませんという顔。心を動かされていませんという顔。

「蝉をこのなかに入れて」

 兄は穏やかな声音で、教師のように厳かにそう告げた。拾い集めてきたいくつもの蝉の死骸を、抱き込んだTシャツからバラバラと振り落した。穴の真上に顔を寄せると、臭いはますます耐え難いものとなり、思わず目を瞑り呼吸を止めた。

 死とは、こういうものなのか。

 兄はおれのその姿を、しっかりと見ていた。刺すような視線を感じた。

 蝉をすべて穴のなかに落とし切ると、兄はおれの肩を引いて下がらせた。それから、スコップでまた土を戻し始めた。見る間に《あれ》は姿を消し、残ったのは真新しい湿った土の色だけだった。悠一、再び名を呼ばれ、おれは呼ばれるがままに穴の上に立った。ふたりで足踏みをし、土を固めた。二度と起き上ってこないように。

 今思えば、本当に死んでいたのかすら怪しい。兄は死んでいると断定していたようだけれど、おれはその息の止まった様子をしっかりとは知らない。でも、あの足踏みで、《あれ》は確実に死んだのだろう。

 数分、……どのくらいの時間が経っていたものか、おれにはわからない。兄が止めるまで、おれたちはふたり、ずっと足踏みをしていた。もはや何のための足踏みなのかもわからなくなるほど、ただひたすらに地面を踏み固めていた。やがて兄が足を止め、おれも続いて止まった。

「昼飯にしよう」

 食欲など湧いては来なかったけれど、兄が言うからそうしなければならないような気がしていた。振り返ると、庭の芝生の一部が剥げて土の色が浮いている。兄は気にならないのか、知らぬ素振りで室内へと戻っていった。

 リビングルームには大きな窓がある。そこから外を見、おれは戦慄した。色の変わった土の下には、死体と無数の蝉がぎゅうぎゅうに詰められているのだ。

 兄は冷蔵庫からふたり分の冷麺の皿を取り出してきて、箸を用意してくれと告げた。おれはいつもなら面倒くさがって見せるけれど、その日はそんなことすらできずに、ただ従順に箸を並べ、ふたつのグラスに麦茶を注いだ。冷えた液体を注いだグラスはすぐに汗をかき、水滴はまるで《あれ》の血だまりのように広がっていった。

 冷麺はひんやりとしていて、伸びきった麺はそれでも美味しかった。

 蝉は鳴き止まなかった。おれたちがふたり黙りこくって食事を続けているのに、蝉は一度も黙ることなく鳴き続けていた。食事の時間は終わってしまったのだろうか、そんなことを考えようにも、おれは向かい合った席にある兄の手元さえ見えずに作りものめいた黄色の麺を必死に眺めていた。

 おれが食べ終えたとき、兄はすでにゆったりと麦茶のグラスを傾けているところだった。兄は食後の時間が長い。飲み物や、ときには甘いものを食べたがる。父はその習慣を女のようだと言ったけれど、娘のいない母は食後のひと時を一緒に楽しんでくれる存在がいることが嬉しいようだった。兄はきっと、そういうのを知った上で演じている。

 演じている、とその日咄嗟に思いついたことに、おれはひとり愕然とした。今までそんなことは脳裏によぎったこともなく、ただ兄は食後にゆっくりとした時間を設けるのが好きなのだと思っていたのに。

 《あれ》を埋める兄の姿は、これまでの兄の姿を少なからず変えた。まるで得体の知れないものになってしまった気がした。

「遅かったな」

「……うん」

「食欲なかったか?」

 そういうわけじゃない、と答え、兄の顔を見た。兄は笑っていた。

 今まで一度も見たことのない顔で笑っていた。

 そして席を立ち、おれのほうへと近づいてきた。テーブルにひたりと手をつき、椅子に座ったまま身動きのとれないおれに顔を寄せた。あの笑みを浮かべたまま、兄は鼻先でも触れそうな距離で言った。

「愛してるなら目を逸らすな」

 今でもあのときの笑顔は思い出せる。薄ら笑いというのか、驚くほど意地の悪い顔をしていた。今までの兄の顔ではなかった。

「おれが死んだら、穴を掘るのもお前ひとりだ」

 おれは射止められたように身じろぎひとつできず、焦点の合わない目で眼前の兄の顔を見ていた。兄の言った言葉の意味は頭に入ってこなかった。考えるようになったのは、兄が卒業とともに家を去り、ひとりになったときだった。

 十のおれには愛するなんて大げさな言葉は理解できなかった。誰のことも愛してはいなかった。好き・嫌いはあれど、憎しみや愛情などという機微は未だ発達しきっていなかった。

 十八の兄は、きっと誰かを愛していた。

 

 

 とうとう兄がやってくる日になった。その日はごくあっさりとやってきた。おれは結局葬式にも呼ばれず、練習試合もなく、だらだらと部室に残ったものの、おおむね部活をやっている学生が帰る時間帯には帰路についていた。

 スマホをいじりながら夜道を歩いた。父や母からはやく帰って来いというメッセージがいくつか入っていた。美人よ、とは母のメッセージだ。縋るようなスタンプをひとつ送って寄越したのは父だ。母の舞い上がる様と、粧し込んできた若い女性にどう接していいのかわからずむっつりと黙り込む父の姿が想像できた。

 面倒だと思いながらもそれに対し今帰っている旨を返信しようとしたとき、スマホは揺れ、新規のメッセージを受信した。

『今日はありがとう。嬉しかったです。部活お疲れさま!』

 目にした途端、知らずのうちに息を詰めていた。同じクラスの女の子からの一言だった。

 昼休み、偶然すれ違った彼女が重そうにたくさんのノートを抱えていたからすこし手伝っただけだ。それが、彼女にとっては時間を考慮して一言を添えてまで連絡を取りたい出来事だったらしい。

 その奥に潜む好意を感じ取り、おれの息は詰まったままだ。足を止め、呆然とスマホの発光し続ける画面を見つめた。数歩先には電灯があり、そこでは無数の虫たちがくるくると踊るように飛び交っていた。

 兄は、愛するひとを見つけた。まだすこし若いけれど、結婚も考えているのだろう。そのための挨拶だ。一生をともに歩む覚悟を決めた女を連れてくる。

 対しておれはどうだろう。一度だけ席が隣になったその少女が、どうやらおれのことが好きらしいと聞いたとき、全身を走ったのは歓喜ではなく憎悪だった。

 あの日、おれは兄とともに葬式をした。そうして兄はおれに消えない呪いをかけてしまった。ちょっとした戯れだったのかもしれない。兄も動揺していただけなのかもしれない。そう考えれば考えるほど、あの日の兄の笑顔が否定する。

 愛してるなら目を逸らすな。

 愛するとはどういうことなのだろう。女の子から好きだと言われ、思い出すのはいつだってあの兄の笑みだった。十ではない少女の好きの向こうにはきっと愛があるのだろう。愛するということは、目を逸らしてはならないということだ。死からさえも。

 昼休みの少女の照れた様な笑顔と、夜道に浮かび上がる文字列に交互に目を揺らし、おれはその場に蹲った。おれにとって、好意は恐怖だった。あの真夏の饐えた臭い。虫の集る様子。兄の笑み。兄の愛したひと。

 今のおれはあの時の兄と同じ十八なのに、愛するということを知らずに、憎しみだけを学んでしまった。愛するということにつきまとう死に怯え、怯えはやがて憎しみになった。

 あの日、兄は誰のことを思っていたのだろう。夏の暑さのなかで、兄が思い描きおれに対して囁いた言葉は八年という月日を経ても未だにおれを縛り付けている。

 泣いてたまるかと歯を食いしばり、おれは蹲ったまま兄の彼女について考えることにした。美人で、……兄の選んだひと。もう彼女のほうの両親には挨拶を済ませたのだろうか。兄はどんな風に彼女をもらう決心をしたのだろうか。兄は一体どうして彼女を愛したのだろうか。

 彼女は果たして兄の葬式で泣いてくれるひとなのだろうか。

 握りしめたスマホがもう一度震えた。胸の前で抱え込んだそれは、今度はすぐには鳴り止まず、しばらくしてから着信なのだと思い至った。そうして確認し、思わず画面を凝視したのは、そこにあった名前が兄のものだったからだ。

「…………もしもし?」

 震えた声音で応対するのが嫌だったので、おれは深呼吸を二度してから通話ボタンを押した。兄からの着信は、携帯電話を買ったときの登録以来初めてのことだった。おれの二度のゆっくりとした深呼吸にも途絶えることのなかった通信は、やがて兄の声を通話口から吐き出した。

『悠一? 今どこだ?』

 少なからず動揺するおれのことなどは無関係に、兄の声は平然としていた。電波に乗って届く声音は最後に聞いたそれよりも低く、あの日の囁きよりは明るかった。明るい、というのか、おそらくはこれがいつもの兄の声だ。

 おれはあの夏の日に縛られすぎている。

「帰ってるとこ、もうすぐ着くけど」

『母さんも父さんも待ちくたびれてるよ』

「ごめん、すぐ帰る」

『まあ、じゃあ。待ってる』

 待ってる、という言葉が耳の奥でリフレインした。おれはよろよろと立ち上がり、家路を急いだ。既読をつけてしまったメッセージには返信をしなくてはならないと思うのに、スマホの電源を落とし、おれはただ家路を急いだ。

 気がつけば小走りになっていて、家の姿が見え始めた頃、首筋を汗が滴り落ちていくのを感じた。途端に心臓が冷えるようで、おれは慌ててスポーツバッグからタオルを取り出し汗をぬぐった。電話の前のように深呼吸をし、おおきな瞬きを二、三度した。

 家の木立の隙間からは明かりが漏れていた。あたたかい光だと思う。そこには久しぶりに帰ってくる兄がいて、それを待つ両親がいて、そして赤の他人の、しかし美しい女性がいる。


 ふと足元を見た。奇しくもそこは、《あれ》が撥ねられたちょうどその場所だった。


 暑い、とちいさく呟いた。日の落ちた夜道とはいえ、夏の暑さが肌にまとわりつくようだった。あの兄の笑みを思い浮かべてみる。おれも、いつかあんな風に笑う日がくるのだろうか。愛しているから目を逸らさずにいてくれと、懇願する日が。酷薄な目で、ともすれば泣き出しそうな顔で笑うのだろうか。

 違う。おれはハッとしてかぶりを振った。あのとき、兄はおれに対して懇願したのではない。そうではない。そうではないのに。

 あれから随分と成長した木々を前に、おれはじっと佇んでいた。見上げれば、あの日の自分が窓からこちらを見ているような気さえした。




 おれは、兄が死んだら墓穴を掘ろうと思う。腐臭がしても、蠅が集っても、黙々と深い穴を掘ってあげようと思う。ひとりでそれを終えたら、その次は涙を流そうと思う。汗と涙と泥にまみれて、兄の遺体のうえで足踏みをするのだろう。

 兄の葬式では、おれは泣かなくてはならないから。泣きながら、兄の遺体をぎゅうぎゅうと深く根の底まで沈めていくのだ。

 愛するということは、きっとそういうことだ。十八のこの日、おれは愛というものを知った。

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