伊都はかく語りき ―忘れ去られた歩道橋―
葛城2号
プロローグ
ムシムシと、誰も彼もが熱波と湿度のダブルパンチでグロッキーになる6月も過ぎ去り、暦の上では7月半ば。
セミの鳴き声が、キッカケか。あるいは、キッカゲを受けて蝉が鳴き始めたのか、それは定かではない。
どちらにしろ、暑いのは同じであるからだ。
そして、誰も彼もが意識しない内に、気付けば季節は梅雨を通り越して真夏に差し掛かっていた。
真夏……文字だけを読めば、何とも憎たらしさを覚えずにはいられないのではないだろうか。
『真』の『夏』と書いて、真夏。
夏の一文字だけでも暑いというのに、そこに『真』の文字が追加される。いったい誰が、このような邪悪な概念を生み出したのか。
その結果、日本は言葉通りに、何とも蒸し暑い真夏の気温を露わにしていた。その年の8月の暑さは、例年以上の猛暑になる事が予測されていた。
テレビの向こう、明らかに薄着になったコメンテーターが、額に浮いた汗をそのままに、これから突入する夏の危険性を訴えていた。
日中の外出は極力控え、冷房の効いた部屋で大人しくしていること。夜も熱帯夜となるのでエアコンは切らず、常に水分を補給することを心がけること。
だいたい、どの放送局にチャンネルを合わせても似たようなことを話していた。
中身は至極まともで大事な事だけなのだが、まあ、聞き飽きたというやつだ。ある種の挨拶というか、定例行事みたいなもので、誰も気には留めていない。
そしてそれは、
とにかく、熱中症には気を付けろ。
そんな忠告を発したのは、傍目にも疲れているのが丸分かりな顔の担任で。その忠告を右から左に聞き流した生徒たちの反応にも、担任は何も言わなかった。
だって……今日から夏休みである。
部活やら塾やら何やらで忙しない日々を送る生徒は居るだろうが、それらを抜きにしても一ヶ月近く、学校という半日強制拘束が無くなるのだから、気分も高揚するというものだ。
それを何度も見て来たからこそ、担任(というか、教師全員)は、何事も無く夏が終わってくれればそれで良いとだけ考えていた。
とはいえ、生徒たちもそこまで愚かではない。馬鹿な事を仕出かす事はあっても、愚か者ではないのだ。
言われずとも分かっている事だし、気を付けても、なるときはなる。生徒たちは生徒たちなりに自衛するだけである。
……さて、そんな感じで無事に終業式を終え、夏休みを迎えた生徒たちだが……当たり前な話だが、テンションで猛暑には勝てない。
日本全国どの地域も等しく襲われ続けている熱波。毎年鼓膜が悲鳴をあげるほどに喧しい蝉の雄叫びも、今年は幾らか元気が無い。
まだ8月にもなっていない段階でこれならば、本腰を入れた8月になれば、いったいどうなってしまうのか……誰もが、ぽつりとそんな事を考えていた。
……が、しかし。
もはや恒例行事がごとく毎年のように繰り返されていた猛暑だが、この年は例年とは少しばかり異なっていた。
――数日間だけ、最高気温が30℃を下回るという予報が流れた。
理由は、色々と有るらしい。
ナントカ現象だとか、ナントカ風だとか、専門用語が三つ四つ偶発的に重なった結果、日本は観測史上において極めて稀な冷夏を体感する事になった。
もちろん、数日間だけの限定的な話である。それが終われば、また猛暑が来る……が、またもや、しかし、だ。
梅雨が開けて、いざ夏だぞという時。そんな時、周期的に、いきなりドカンと大雨が降る年が来る。果たして、そこに神や天の意思が働いているのだろうか。
それは、人の身では分からぬことである。
当然ながら、半分が人間で、半分が神様の古都葉伊都にとっても、それは分からぬことで。
そして……そんな時だからこそ、変化が訪れるのだろう。
何時の間にやら『俳句部』兼『心霊対策相談部』となっている部室にて。
趣味である俳句を
以前より予報されていた、気温が30℃を下回る季節外れの……初日。時刻は、10時を少しばかり回った頃であった。
――その日の部室内は、静まり返っていた。
理由は、そう複雑なものではない。加えて、静かなのはその日に限った話でもない。
部員数が実質1名な事と、基本的に無駄口は零さない物静かな性格が合わさった結果、伊都が1人で居る時は何時も静かである。
実際、これまで部室を訪れた者は、『静かすぎて留守なのかと思った』と口を揃えたぐらいなのだから、如何に室内は静まり返っているかが窺い知れるだろう。
――だが、その日、その時。
例外が、起こっていた。その例外は、伊都。渾身の一句を認めた伊都は……感無量のあまり、むふふんと鼻息を荒くしていた。
右手に筆ペン、左手に俳句が認められた紙。
サラサラッとよどみなく動いた筆先が記した十数文字……伊都は、そっと筆ペンを置いた。
……自信作であった。
誰に対しても胸を張れる、傑作だ。
閃いた瞬間、伊都は脳裏にズバッと電撃というか雷がビカビカッと光ってドカンと落ちたのを実感した。
あまりの出来の良さに、己の内に眠っている才能が開花し始めているのではと思ったぐらいだ。
「……我ながら、惚れ惚れします」
右から見て、左から見て、正面から見て。
少し目を瞑った後、もう一度左右から見て、最後に正面から見て……そっと、紙を置いた。
……。
……。
…………帰ろう。
そう、伊都が思ったのも、致し方ないだろう。
それほどの自信作である。普段から修行の合間にちょこちょこと認めている伊都だが、そんな意欲が一発で吹き飛んでしまうレベルの傑作であった。
伊都にとって、俳句はあくまでも趣味の範疇であって、自己満足に終始している。名人だとか何だとか、そういう事への興味も全く無い。
なので、何処ぞのコンクールや賞に送りたいとは欠片も思っていない。
見たいとお願いされたならば何時でも見せはするが、だからと言って、不特定多数の誰かに認められたいとは欠片も考えていないわけである。
故に……伊都は今、とても満たされていた。
絵師が、己の絵の出来に思わず自画自賛するように、伊都はただただ己が認めた俳句を褒め称え……そこで、全てが完結していた。
……今はただ、この満足感、達成感に身を浸したい。
そんな思いで、伊都はごそごそと帰り支度を始める。
まあ、支度とは言っても、基本的に必要最低限の物しか持たず、必要な物しか机の上には出さない性分なのが伊都だ。
換気の為に開けておいた窓を閉め、カーテンを閉め、蛇口の栓や置かれた電気ポッドや何やらの電源が点けっぱなしでないかを確認すれば、もう帰り支度は完了する。
ものの1分と掛からない内にちゃちゃっと帰り支度を終えた伊都は、さて、とグイッと背筋を伸ばしてから……部屋を出ようと――。
「伊都ちゃん、居る~?」
――したのだが、そうはならなかった。
部室にやってきたのは、崎守舞香という名の美女だ。実家は金持ちで、色々有って友人関係となった御人である。
伊都より学年は一つ上の先輩であり、名目上は『心霊対策相談部』の側に所属している。ちなみに、この学校の副会長でもあるおかげか、学校でもそれなりに融通が利くとか何とか。
「伊都ちゃん、スマホ持ってる? 何度か連絡入れてみたけど全く繋がらなかったんだけど」
顔を合わせた直後、挨拶もそこそこに舞香はそんな事を尋ねてきた。「……持っておりますよ」その言葉に、伊都は小首を傾げた。
実は、古都葉伊都15歳(精神年齢数百歳)、夏休みを迎えるに当たって、スマホを手に入れていた。
その経緯は、特に複雑怪奇なモノではない。伊都の保護者より、『そろそろ必要だろう』という事で、送られてきた物である。
伊都としては、特に必要ではないと思って送り返そうとした。
『大多数の者は、持っていて当然と思われるモノを持っていないだけで、その者の評価を下げる。今の時代は、それがスマホだ。とりあえず、持っておくだけでもいいから』
しかし、そのように言われてしまえば、もう伊都は断れなかった。
それに、考えてみれば、だ。
スマホという伊都にとっては慣れない道具なので分かり難いが、これが『身なり』として考えれば、スルリと納得が胸の奥に座り込めた。
かつて、尊き『御方』の下で修業していた時、幾度となくそういった場面に遭遇した。
その時は立ち振る舞いを始めとした所作全般であったり、場面に応じた言葉遣いであったりしたが……なるほど、と伊都は考えを改め、有り難くスマホを手に入れた……というわけである。
……まあ、実際の所は、だ。
高校生にもなってスマホはおろかパソコンやゲーム機や漫画を一切持たず、ひたすら修行尽くしの日々を変わらず送っているのが心配になったからなのは、知る由もない事である。
血の繋がりはない友人(伊都の祖父)の孫娘、その間柄はたまに様子を見に来る保護者の域を出ないとはいえ、彼なりに伊都の事は想っている。
本人が望むならと思って静観してはいる。
だが、伊都のあまりにストイックを通り越した修行者顔負けの生活に、別の意味で想っているのも事実。ていうか、大丈夫かと心配している部分が大きい。
だからこそ、一方的にスマホを送ったわけである。
仕事柄、昨今のSNS事情を見聞きしている故に出来るなら知識を付けてから与えたかった。トラブルが起きてからでは、遅いのだ。
けれども、そうすると本人の意思に任せたが最後、永遠にその機会が来ない可能性に思い立った末の……ファインプレーであった。
「じゃあ、電源入れてる?」
「……? 『すまほ』であれば、持っておりますけど?」
「……あ~、うん。分かった、ちょっと伊都ちゃんのスマホ、見せもらっていいかしら?」
促された伊都は、鞄に入れてあるスマホを取り出して見せる。
何の保護シートも対衝撃カバーされていない剥き出しのそれを前に、舞香は苦笑と共に受け取って……やっぱり、とため息を零した。
「伊都ちゃん、これ、電源が切れているよ」
「それはおかしいですね、使っていないから電池はそのままのはずですが……」
「……最後に充電をしたのは何時?」
「……? 使っていないので、まだ充電はしておりません」
言い換えれば、スマホが手元に届いたその時から全く……スマホの画面すら見ていないという事になる。
というか、もうこの発言だけで、伊都がスマートフォンというものを正確に理解していないのが丸分かりであった。
「……スマホってね、けっこう電池の減りが速いんだ。だから、3日に一回1時間ぐらい、充電するようにしてね」
もちろん……心優しい舞香は、それをわざわざ指摘するつもりはなかった。気付いていない伊都も、分かりましたと素直に頷くだけであった。
ただし、充電はちゃんとするようにとだけは、伝えておいた。
だって、使おうが使わなかろうが、基本料金は掛かるし。ていうか、外でも連絡が取れるようにするための(現代では、それ以外の用途もあるけど)ものなのにコレでは、払い損だ。
実家こそ超が7個付くぐらいの資産家ではあるが、だからといって、ムダ金は1円とて払いたくはないシビアな感覚を舞香は持っているのであった。
……で、そんな舞香の内心を他所に、だ。
ふと、伊都の視線が彼女から外れ、その後ろへと向けられる。そこには、伊都にとっては見知らぬ老女……推定70歳は超えていると思われる女が居た。
舞香の親戚……ではないだろうと、伊都はまず判断した。
何故なら、『波長』が違う。義理に限らず繋がりがあれば、大なり小なり、その者から放たれている『気配』というか、そういう部分に現れるからだ。
まあ、それ以前に顔立ちの系統が明らかに異なるというか、来ている服も庶民的というか……判断する部分が多々見受けられたが、そこらへんを伊都は全く気付いてはいなかった。
(……ふむ?)
それよりも、伊都は老女より感じ取った……『後悔』や『哀愁』という名の感情に、軽く小首を傾げた。
何者なのかは不明だが、舞香と一緒に来たのだ。おそらく、己に対する用事でもあるのだろう……と、考えていた。
そして……それは、おおよそ当たっていた。
伊都の視線を見て色々と我に返ったというか、察したというか……舞香はようやく本題を思い出して……一つ咳をしてから、見知らぬ女性を紹介した。
……その女性の名は、『
今回は、『心霊対策相談部』のホームページを見て相談に来たのだとか。いったい、何時の間にホームページなんて作ったのだろうか。
何も知らない伊都は、そうなんですかと適当に頷くだけに留めた。
……『ほーむぺーじ』なるモノが何なのか、まずそこから理解していない伊都に察しろという方が無茶である。
とりあえず、伊都が分かるのは、つい先日舞香が始めると話していた『心霊対策相談部』が、いつの間にか活動を始めていたということ。
タマ子さんと舞香は知り合いというわけではなく、タマ子さんが相談し、舞香が受け、何度かやり取りをした後、伊都にも話した方が良い……と、舞香が判断した結果、こうなったということ。
正式に受け入れたわけではないが、どうやら舞香の頭の中では己(つまり、伊都自身)が『心霊対策相談部』に入部している事になっていること。
……いや、まあ、入部に関しては、曖昧な態度を取ったままでいる伊都にも原因はある。
いちおう、伊都は断ろうとしたのだ。
けれども、そういった空気を出した瞬間、話を変えられたり、誤魔化されたりで、今に至るまで明確に断った覚えは無い。
伊都としても、舞香が私利私欲の為に相談部を作ったのであれば、有無を言わさず拒絶していただろう。
しかし、当人の能力不足等は別として、困っている者を助けたいという善意の下で動いているのだから、伊都としても拒否しにくい。
加えてそれが、舞香も身を持って体感した……心霊絡み。
己がそうだったように、常識では解決出来ない類の問題を解決したい……となれば、ますます伊都は拒否出来なかった。
もちろん、だからといって、1から10まで伊都が協力するかと言えば、そんなわけがない。伊都とて、それほど暇ではないのだ。
だから、己が必要ではないと判断したら、即座に断るつもりであった。
故に、伊都は、老女と向かい合うようにしてソファーに腰を下ろした後。
お茶を用意している舞香を尻目に、最初に名乗ってから一言も話さず、俯いたままでいるタマ子を……注意深く観察する。
それは、単純に老女の様子を観察している……だけではない。
伊都は、相手の感情を読み取れる。思考は読み取れないが、それでも、感情から相手の内心を幾らか察する事は出来る。
つまりは、伊都に対して虚偽は通じない。
相手がこちらを騙そうとしている時に発せられる感情の動きを知っているからこそ、嘘であれば即座に看破できるわけだ。
しかし……伊都の目には、そういった感情を老女からは感じ取れなかった。
有るのは、『後悔』と『懺悔』だ。一つばかり気になるのもあるが、そちらは害が無さそうで……他には、『警戒心』だろうか。
まあ、警戒心を持つのは当然だろう。
舞香だって、最初は強く警戒心を見せたのだ。
有って当然だし、それに関しては気分を害することはない。
……それよりも気になるのは、『後悔』と『懺悔』の方だ。
そう、老女は何かを酷く後悔し、悔いて、謝りたいと思っている。誰に謝りたいのかは、分からない。だが、昨日今日の話ではない。
十年、二十年……いや、もっとだ。
それこそ、幼い時から抱え続けていたのではないかと思ってしまう程に根深く、強烈な想いを……伊都は、老女より感じ取っていた。
まるで……妹の事で思い詰めていた舞香のようだ。
けれども、重さというか、根深さは舞香よりも深いように思える。まあ、そこらへんは実際に話を聞いてみないと分からないけれども、この感情の動きは……嘘ではない。
(……アレは、どういう状態なのでしょうか?)
何より、伊都の注意を引いたのは……老女の傍にて佇んでいる、着物姿の……三つ編みの少女霊であった。
一見、守護霊に見える。おそらく、老女とは血縁関係にあった者なのだろう。
老女との波長が似ているだけでなく、顔立ちも……何となくではあるが、老女の若かりし頃はこうだったのでは……という面影が見て取れる。
しかし、すぐに伊都は、それだけではないことに気付く。
何故かといえば、少女霊の表情が他の守護霊と異なるからだ。
具体的には、少女霊にはその『力』は弱い。いや、弱いどころか、存在そのものが希薄だ。無理をして現世に留まり続けているのが一目で分かる。
また、これは伊都が感じた事ではあるが……とても、悲しそうなのだ。今にも涙を零さんばかりに目を潤ませ、俯いてしまっている。
それは、けっこう珍しい状態である。
何せ、守護霊というのは守りたいという強い意思と、相応の『力』が有って、初めて成り立つモノだから。
だいたいは血族が付くが、それでも言うなれば、完全なる善意である。
なので、守護霊が居ない場合もある。もちろん、見返りを与える代わりに守護する形もあるが、それは少数派だ。
まあ、守護霊も見方を変えれば憑依霊(ひょういれい)に該当するので、違いは助けようと思うか否かの違いぐらいしかないが……話を戻そう。
基本的に、守護霊は相応の『力』を有している場合が多い。
無くてもその地位に就くのは簡単だが、不相応な守護霊はだいたい己の無力感を自覚し、その任を辞退するからだ。
合わない器に無理やり収まったところで、双方に無理が生じるのが当然の帰結。無理をすれば、お互いに悪影響を及ぼしてしまう。
だから、一時的にその任に就いたとしても、そう長くは続けられないのだ。
……が、しかし、逆説的に考えれば、だ。
それでもなお、力不足だと分かっていてもなお、守護霊を続けている場合は……善意とは別の、何か重大な理由が有る場合が多いのだ。
それが何なのかは、伊都には分からない。
けれども、伊都には分かる部分もある。当人にも、少女霊にも、分からなくとも、そうなってしまった原因が有るという事を、伊都はその目で知った。
「――どうして、自らを責め続けているのですか?」
故に、伊都は率直に問い掛けた。
途端、タマ子はハッと顔を上げた。その顔は変わらず『後悔』と『懺悔』に満ちていたが……少しばかりの驚愕が湧き出ていた。
「貴女を見つめる、着物姿の少女の霊が見えます。着物の色は淡い桃色で、三つ編みの……泣きホクロがある少女です。心当たりは、ありますか?」
――その瞬間、タマ子の表情が明らかに変わった。
驚愕が強く出て、警戒心が揺らいでは現れ、それに紛れるようにして伊都に対する関心が高まっている。
察するに、伊都が本物である可能性が脳裏を過ったのだろう。
と、同時に、見える事に気付いた少女霊が、ポツリポツリと語りかけてきた……ので、伊都は……改めて、タマ子に問い掛けた。
「名は、『キョウコ』、ですね。貴女とは姉妹の関係で……よく、一緒に学校へ通っていたようですね」
「……そこまで分かる……いえ、姉さんが、ここに?」
「居ますよ、ここに」
「ね、姉さんは何と?」
伊都の視線が、少女霊……キョウコへと向けられる。
気付いたキョウコが、ポツリポツリと語りかけるのを続けてくれるが……しばし耳を傾けていた伊都は、静かに首を横に振った。
「……残念ですが、そこまでは。存在そのものが希薄になっているせいですね」
「希薄……ですか?」
首を傾げるタマ子に、「長く現世に留まっているせいでしょう」伊都ははっきりと告げた。
「肉体を持つ生者とは違い、死した亡者……霊魂というモノは、その場に存在するだけでも『力』を……そう、言うなれば体力を消耗します」
「……霊にも、そのようなものがあるの?」
「ありますよ。むしろ、肉体を持っている者よりもよほど重要です。霊体というのは、本来はそれほどに不安定な状態ですから」
その言葉と共に、伊都は背筋を伸ばした。
「で、一つ聞きたいのですが、いったい何があったのですか?」
「え?」
「貴女も、キョウコさんも、自らを随分と責めておられる。何が有ったのかまでは存じませんが、どうしてお二人は自身を責め続けているのですか?」
――その時、タマ子は息を呑んだ。文字通り呼吸を止め、心底驚いた様子で……呆然と、伊都を見つめていた。
対して、キョウコの驚きはそれほどではない。いや、驚きはしたが、すぐに俯いてしまったので、それ以上は分からなかった……と。
……そっ、と。
テーブルに、ほんのり湯気が立っているお茶が二つ置かれた。「舞香さん、ありがとうございます」軽く頭を下げてお礼を述べた後、ズズッと一口。
夏場に飲むには不適切かもしれないが、今日は夏とは思えない涼しさだ。個人的にも温かい方が好きなので、伊都としてはハナマル満点であった。
「……伊都さん」
茶の味を楽しんでいると、タマ子より声を掛けられた。見れば、タマ子は茶を飲まず……何処となくぼんやりとした様子であった。
「伊都さんは、『蜃気楼のような歩道橋』を御存じでしょうか?」
「……歩道橋、ですか?」
「『蜃気楼のような』、ですよ」
タマ子の言葉に、伊都は茶の水面に視線を落としながら、考える。とりあえず、パッと思いつくモノはなかった。
「……子供の頃、姉さんと一度だけ、その橋を渡った事があるのです」
「たった一度だけ。どうして渡ろうと思ったのか、今では思い出せません」
「ただ、渡らなくちゃと思って……姉さんと一緒に、その橋を渡りました」
「そこで……私は、姉さんと……」
考え込む伊都を他所に、タマ子は一方的につらつらと話し始めた。まあ、話すとは言っても、そこまで複雑な内容ではない。
ただ、子供の頃に姉と一緒に、蜃気楼のような歩道橋を渡った。
そして、気付けば元の場所に戻っていて……気付けば、人が変わってしまったかのような姉と、何も覚えていない自分だけが残された……それだけである。
そこで何を見たのか、タマ子は何も覚えていない。どのような流れで歩道橋を渡ることになったのか、それすらも覚えていない。
ただ、そこで……何かが起こったという事だけは、覚えている。何か……そう、重大な何かが起こったのだと。
それだけは、強く断言した。
そこには、並々ならぬ熱意がこもっていて、ともすれば、威圧感を感じさせるぐらいであった。
いや、ぐらい、ではない。実際に、舞香は一歩退いていた。
老体とは思えぬ気迫。舞香ですらそうなのだから、感情を読み取れる伊都の体感では、それ以上であった。
「――伊都さん」
「はい」
「どうか、お願いします。あの日、姉に何があったのか……どうして、姉は変わってしまったのか……それを、知りたいのです」
深々と……それはもう、深々と頭を下げるタマ子の姿を前に。
「……分かりました。微力ながら、全力を尽くします」
伊都は、そう言って……初めての依頼を了承したのであった。
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