【3月20日 光る朝】
桜の花が何度か咲いては散った。ひと段落がしたので、苺依はベランダにでて外の空気を吸うことにした。ベランダに置いておいたものを綺麗に片づけたので、いつもよりも広く感じた。室外機を見ると埃をかぶり、ねじも錆びてきていた。プラスチックでできているカバーは紫外線による劣化が激しくなっており、押せば折れそうになっている。そういえば、引っ越したころにエアコンを新しくしたと新居案内をしてくれた不動産屋のお姉さんが言っていたなと思い出す。あのときよりも幾分か長くなった髪が苺依の頬をかすりながら揺れていた。苺依はそれを耳にかき上げて、外を眺める。ぐーんと身体を伸ばして背伸びをした。清々しい気持ちになる。それから、朽ち果ててしまったストレリチアに目を向けた。
「ごめんね。下手に育ててしまって」
そう、謝りながらプランターを引き上げた。あとで袋に詰めて捨てようと思ったからだ。開け放した窓から春の風が吹き込み、部屋のレースカーテンを舞い上げた。窓から見える部屋の奥にいくつかの段ボールが積み重なって見えて、家具は中身を取り出されて空っぽになっていた。
苺依はこの街から引っ越すことにした。
塚本とのことがあったが、それが切っ掛けになっただけで、自分を見つめてもっと素直になろうと思ったからだ。苦しい思いを堪えて、手にしたいものがあるわけでないと気づいた。
■ ■ ■
「ほぼ、終わりだなぁ」
荷物の搬出も大きいものは終わって、苺依は自分で移動する際に持っていくものをまとめて、引っ越し屋に残りの段取りを指示したところであった。目の前には搬出時に出てしまったごみがいくつかあったので、それをまとめてごみ置き場に出そうとしていたところであった。チャイムが鳴り、インターフォンを見るとガス会社の人が来ていた。閉栓をするためにガスメーターまで入らせてほしいとのことで、開錠をしてあげた。手際よくはきはきとした言いようの人であった。
ごみ袋を一回分出し終えて、次の分を取りに部屋の前まで戻ると、ガスメーターのところにさきほどのガス会社の人が居た。
「ご苦労様です」
と苺依はなんとなく声掛けをした。
するとその人が振り向いて、帽子を取って挨拶をしてくれた。
「やあ、川上さん」
帽子をとると髪を刈り上げた山本さんが居た。
「え? 山本さんですよね」
どうやら、山本さんは会社を辞めたあとガス会社に転職したそうだ。あのころ、頬がこけて目の下も黒くなり、白いというより青い肌だっ山本さんだったが、まるで違っていた。
「印象が凄く変わりましたね…」
そう言うと、歯を見せて笑った。
「外に居ることが増えたからね。自然と焼けるし身体つきも少し良くなる。それより、君も随分と変わったように見えるよ」
仕事の不安を抱えていた、あの時の山本さんとは全く違う表情を見せた。山本さんも苺依と塚本のことを知っていたのかもしれないが、そのことには触れずにいてくれたのかもしれない。
「私も辞めました。あの会社。自分に合った仕事をしようと思って」
苺依は自分の表情がどんなふうになっているか気になった。なにもかも落ちて、陰の無い表情が出来ているかなと心配になる。
「いいんじゃない?」
「え?」
何が良いのか、分からず疑問をそのまま口に出してしまう。
「僕は辞めたあとも辛かったし、悔しかった。負けたみたいな感じがしてさ。今でも立ち直ったわけじゃない。ただ、この仕事やってて自分に向いているかもなって思ったんだよ。こだわりが強いのは職人気質でさ、こういう技術を持つ仕事は僕には良いんだろうな」
山本さんは多分、苺依が本当は隠そうとしていた、悔しさや喪失感を知っているのかもしれない。それでもすぐにその気遣いに応えるができないでいたら、山本さんが話を変えた。
「手に持っているそれ、捨てるの?」
手に持っていたのは捨てようとしていたストレリチアである。ゴミが不燃であったと思い、引っ越し先に持って行って捨てようと思い、持って帰ってきたのだ。
「そうなんです。なんか枯れちゃって」
「ちょっと見せて。あれでしょ、ストレリチアでしょ?」
あれ?なんで知っているんだろうと思っていたら、そういえば贈り物でもらったのは会社からだったんだと思い出した。もしかすると一年先輩の人たちが選んでくれたのかもしれない。山本さんはひょいと鉢を持ち上げて裏からのぞいた。
「あ、そうだね。多分根腐れしてるのかもな。最終手段で植え替えしてみたらどうだろう」
ストレリチアはすぐに根が成長する植物らしく、狭くなると成長が止まり葉が黄色くなると教えてくれた。
「他人に見えないところで、力を貯めてるんだよ。自分にあったところに行けば元気になるよ」
そのあと山本さんは点検をして閉栓をして帰っていった。苺依はストレリチアのための新しいプランターと土を探そうと思った。
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