夜のあとのあと

岸正真宙

【4月6日 あおいあさ】


 部屋の外、新聞配達のカブのエンジン音がリズム良く聞こえてくる。何度も止まっては進み、エンジンを切っては動く。それは工場などで聞こえる機械音よりも人の温もりを感じるリズム感だった。川上苺依かわかみめいの部屋はほんのりと青くなりはじめていた。厚手のカーテンのひだの隙間にあった真夜中の黒色は消え、世界は暗闇だった夜が波のように引き、入れ替わるように白くて綺麗な朝を迎えようとしていた。朝日が出るほんのひと時前、時間にして数分もない間、世界は青く包まれる。太陽も月も照らない時間。まだ、今日が始まらない時間。苺依は寝息を洩らしながら、柔らかいシーツと布団にくるまれていた。


「あなたが起きる前の世界は、いつもあなたを待ちわびているのよ」


 とその人は苺依に語り掛けていた。


 まだ、世界の歯車は動き始めていなかった。


 苺依の眠りは間もなく終わりを迎えようとしていて、長くて毛量の多いまつげがそよ風にゆらぐ小麦の穂のように、ゆらゆらと動いていた。苺依が寝返りをうつと、シーツとパジャマの衣擦れ音が部屋の角に吸い込まれていく。普段であれば誰の耳にも届かないはずのこの音が淡く輪郭を失っていく様は、まだ彼女が幸せなまどろみの中にいることを意味していた。


 苺依は社会人になってまだ間もない。東京の都会の一部屋で眠る彼女は、自分の居場所を失った船のように、ゆらゆらと社会の波間に浮いている。あとは、精いっぱいの毎日を過ごす。いつか、自分に合う羅針盤に出会う為に。


 午前6時、アラームが鳴り苺依がスマートフォンに手を伸ばした。どうして、こんなに早く起きる必要があるのかと、いつも何かを恨む。それが何かは分からないでいた。


 眠たい目のまま、カーテンを開ける。シャッと鳴ったカーテンレールの音とともに、朝の光が細胞に吸い込まれていく。


 洗面所に行って顔を洗って頭の回転をすこしずつ上げていく。いつもの日課で浄水器からコップに水を入れて飲み干す。それから、もう一杯を入れてベランダに出る。室外機の上に申し訳程度にちょこんと乗ったプランターにコップの水をかけてあげた。プランターにはこの部屋に引っ越してきた際に、贈りものでいただいたストレリチアが居る。分厚い葉が2、3枚あり、深い碧色をしている。アフリカ原産のこの植物はあちらの鳥のように色鮮やかな花を咲かすらしい。いまは、垂直に伸びた茎に自慢の葉を飾っているだけの素朴さで、とてもそんな風になるとは思えないでいた。


 外に目を向けると、向かいの一軒家の赤茶色の屋根が見える。苺依の部屋は3階の南西向きの為、朝日はいつも部屋を躱して差し込む。遠くを見やると、道路の先に新聞配達のバイクが見えた。どこか親しみの湧く、後ろ姿に見えた。向かいの屋根に雀のつがいが飛び回っていた。


 つがいは屋根の日当たりのいいところにで何度もお互いの身体をつついたり、声を奏でたりして、少しずつ移動していった。


 一瞬、風が吹いたと思ったら、二羽は飛び去る。


 二羽はどちらも別々の方向に飛んでいく。


 苺依はどちらも見えなくなるまで目で追っていく。


「おはよ」


 苺依は小さく世界に向けてそう言い、朝の支度をした。


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