妹の満悦

 銀色の腹にナイフを入れて開く。えらと内臓を取り除き、血合いを取り除いて綺麗な水で軽く洗った。腹から背骨と身の間に刃を入れて、尻尾の辺りまで切れ込みを入れる。それを何度か繰り返して、徐々に切り開いていった。

 最後に頭を割り、開きが完成。塩水にしばらく浸けた後、風が通るよう網の上に広げて干していく。

 アスファルトの上に積み上げられた魚を、同じ作業を繰り返して片付けると、アリィはそのまま地べたに座り込んで溜め息を吐いた。四角い箱状の網は、スライドドアを開け放したところに引っ掛けてある。風に揺られて生臭い臭いが拡がった。

 ちょこちょこ、とミロが辺りを走り回っている。


 少し雲の多い青空。目の前に広がる湖は、深い碧の水面を細かく波立たせているために、鏡にはなっていなかった。

 湖の対岸をじっと見ていると、あちら側でも建物が沈んでいるのだろう、屋根の上だけが少し見える。それから岸に沿って視線を走らせた。リオが言っていたように、ここら一帯の昔の道路は、大半が水没してしまっているようだ。

 アリィはこの先の道のりを考える。山を下りてすぐにあった湖だ。岸のすぐ側は森となっている部分がほとんど。ただ、アリィたちが今いる地点から右側は少しひらけているから、そこを走っていけばいいだろう。ただ、その先で木々が立ちはだかり道を塞いでいる可能性は否めない。


「まあ、そのときはそのとき……か」


 抱え込んだ膝の上に肘を置き、その手で顔を支える。波の音に耳を澄ませれば、心が洗われるような気がした。

 心の中が穏やかに鎮まっていく中で、ふとリオとエカのことを思い出す。――二人は今どこにいるのだろうか。


 ざばり、と水の音が聴こえて、アリィは我に返った。慌てて顔を上げて見ると、リオがアスファルトの岸に上がっている姿が見えた。

 辺りを濡らしながら、裸足でこちらの方へ来る。下のズボンだけを穿いた兄は、自らの腕を嗅いで顔を顰めていた。

 奇妙な行動に、アリィはすぐに呆れ顔を作る。


「なにやってんの、おにぃ」

「いや、なんだか生臭いかなって。……身体洗うかな」

「そんなに真水があるとでも?」


 アリィは親指でマイクロバスを示した。魚の干物を作るための掛けものとなっているバスからは、蛇腹状の管が伸びていた。水を組み上げるためのポンプのホース。この管を通っていった湖水は、車に積まれている蒸留器を通っていって、蒸留水として主にアリィたちの飲み物やバスの燃料として使われている。

 リオは自分の身体を見下ろして嫌そうな表情を浮かべ、それから諦めたように肩を竦めた。


「……エカは?」

「さあ」


 さして関心なさげな反応に、アリィは内心驚いた。


「一緒じゃなかったの?」

「なんか、エカはエカで自由に遊びたかったみたいで」


 だから別行動していたのだ、とそう言って、アリィが作業していた台の上に、魚を入れた袋をひっくり返した。


「仮にも女の子なのに。心配じゃないの?」


 言い募りながら、何故自分のほうがこんなに彼女を気にしているのか、疑問に思った。リオがエカと一緒にいることが気になって仕方なかったというのに、離れていたらいたで、不安になる。自分はエカが嫌いなわけではないのだ、とそれだけは判った。


「……確かにそうだな」


 自分でも気にしていなかったのが不思議、というかのように頷いて、リオは再び湖の方へと向いた。エカを捜しにいくのだ。


「あ……そうだ」


 その兄が、途中で振り返った。


「これ」


 ポケットから何かを出して、アリィの胡座あぐらをかいた脚の前に置いた。

 忠犬のように前脚を揃えて座った、何かの動物の置物だ。顔周りに特徴があるのでライオンだろう。ペールオレンジの身体に、マリーゴールドのたてがみ、真っ黒に塗られたつぶらな目のそれ。

 ただし、頭の右上部分や胴体の右半分ほどは赤錆が浮いていて、ひどい負傷をしたみたいな有様だ。


「錆びてるけど、可愛いだろ? 浸水した建物の中で見つけたんだ」


 うん、とアリィは微妙な顔で頷いた。確かに可愛らしいが、赤錆の浮き方がグロテスクなので、素直には受け入れ難かった。


「あげるよ」


 だからそう言われた瞬間は、正気か、と疑った。


「好きだろ? そういうの。錆取らないといけないから、ちょっと大変かもしれないけど」


 磨くのが前提、となると納得する。機械いじりをするため、アリィは当然錆取りの方法も心得ている。綺麗に磨いて塗装し直してやれば、確かにもとの可愛さを取り戻すことはできるだろう。ただ、いつから沈んでいたものなのか、錆の層はなかなか厚く、相当な手間を強いられることが予想できた。

 そうと知っていて、兄はこれを持ち帰ってきた。

 アリィがその手間を惜しまず、大事にしてくれると確信しているのだ。


 エカを捜しに行ってくる、とリオは再び湖に飛び込んでいった。

 一人取り残されたアリィは、掌サイズの錆を負ったライオンと、じっと目を合わせた。横から不思議そうにミロがそんなアリィを見ていた。


「……しょうがないなー」


 アリィは両手を上にあげて背伸びをした。顔に当たる太陽に目を細め、アスファルトに手を付いて立ち上がる。バスの中から布切れを持ち出してくると、置物の水分を丁寧に拭き取り、日当たりの良い場所に置いた。

 それから、兄が新しく持ってきた魚を捌きにかかる。

 作業の合間に知らず、鼻歌が漏れていた。

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