第545話 トライアングー
ウルフォディア戦の練度が高くない努たちPTが呪寄装備を用いて160階層を突破してから、一週間が経過した。そんな中朝刊を片手にゼノ工房を訪れたユニスは、昨夜見た光景と変わらず呪寄装備に囲まれている努を見つめた。
「本当にずっといるのですね。このままここに住むつもりなのです?」
ここ一週間はユニスもゼノ工房に通う頻度は労働者さながらであったし、そこで雇われている職人たちも顔に疲れが出るほど働き詰めだった。だがその中でも努は度を超すほどの働きぶりであり、ゼノが工房を乗っ取られるのではと心配するほどだ。
そんな彼は風呂にも入らず刻印油と向き合っていたからか、少しベタついた前髪を鬱陶しそうに分けて目頭を揉んだ。
「この納品分終わったら、浮島階層に潜るんだ……」
「何で三番目に突破したPTメンバーが、ろくに潜りもせずに呪寄装備作ってるのです?」
「中堅たちは続々ウルフォディア突破してるのに、まだ浮島階層にいけない最前線組の気持ちを想像する方が楽しいからね」
「ゴミなのです」
神台で呪寄装備の販売を告知してから、中堅探索者たちは砂糖に群がる蟻のようにゼノ工房へと殺到した。呪寄装備は前もって潤沢に用意されていたが即日完売し、買えなかった者には翌日優先的に購入できる整理券が渡されるほどだった。
そして二日後には呪寄装備を着込んだ中堅PTがウルフォディアを下し、そこからは
だが紅魔団、シルバービースト、アルドレットクロウの上位軍にバーベンベルク家のPTなどは、まともな呪寄装備を仕入れられず160階層で足止めを食らう羽目となった。そしてその要となる努は梃子でも動かぬ有様のため、刻印士の育成をせざるを得ない。
しかしそんな意地を通した努も当然ただでは済まない。元最前線組との軋轢は勿論のことだが、数の多い中堅探索者たちへの装備販売を行えば彼は一人環境から取り残されることになる。
ウルフォディア突破に必要不可欠である呪寄装備は、現状でも2日ほどしか刻印効果を維持できない。そのため2日間で突破できなかったり、ダリルのように被弾しすぎた者は刻印のメンテナンスが必要になる。
呪寄に刻まれた刻印は徐々に再生していき、最後にはその効力を打ち消してしまう。だが光魔石を用いたペンで絶妙な力具合で刻むことにより、打ち消されるまでの時間を稼ぐことができる。
それが現状出来るのは呪寄の加工に慣れた職人であり、それに刻印油を使って刻印できるのは68レベルの努しかいない。その二つが揃ったゼノ工房には連日探索者が訪れ、新規の呪寄装備や購入後のメンテナンスで人が途切れない。
そのため努はゼノ工房で連日呪寄装備の作成とメンテナンスに追われ、浮島階層はまだ一目しか見ることが叶わなかった。そんな努の代わりに今はシルバービーストの中堅白魔導士がPTに入り、ゼノたちは浮島階層を探索しているところだ。
「刻印。あー、風呂入りたい。刻印、刻印」
「入ってくればいいのです」
「でもここの風呂は微妙だし。刻印」
「……あれで文句言うとか、お前はエイミーかなにかなのです?」
65以上の刻印士でなければ安定的に施せない体力と精神力の自動回復の刻印を成立させながら愚痴る努に、ユニスは黄味がかった眉を顰めながら彼の完成させた呪寄装備を丁寧に運ぶ。
そして時折部屋に入ってくる若手のドワーフが持ち込んでくる、光魔石のペンで刻みたてほやほやの呪寄装備にユニスもステータスUP系の刻印を刻んでいく。自動回復系以外はユニスや徐々に育ってきた他の刻印士の分担のため、彼女の仕事量も中々のものだ。
「紅魔団の専属工房も、遂に重い腰を上げたみたいなのです」
「あのヴァイスが舵を切ってくれたおかげだね。ミナちゃんマジ感謝」
「……ミナちゃん?」
そんな作業中に持ってきた朝刊をチラ見しながら話を振ったユニスに、あまり寝ていない努はおちゃらけた言葉を返す。
紅魔団の専属工房にはヴァイスに引けを取らない伝説的な腕を持つドワーフが在籍していたが、それ故にポッと出の刻印士が彼の作り上げた完成品に手を入れることなど到底許されなかった。そんなドワーフの権威ともいえる彼に一定数が忖度する風潮は根強く続いていた。
だがヴァイスは直々にそのドワーフと交渉し、
そんな象徴的な出来事が新聞で報じられたことで、ドワーフが多く働いている工房界隈で刻印士に対する立ち位置が見直されることになった。それこそ伝説的なドワーフの下で当時はひよっことしてしごかれていたドーレンも、それにより刻印士に対して口を濁すことはなくなった。
「アルドレットクロウの二軍、怒ってるのですよ」
「……あぁ、二人で突破でもしたの?」
「なのにそこまで話題にはなってないから、労力に見合ってないと思うのも当然なのです」
「へぇ。ちょっと見せてくれる?」
アルドレットクロウの二軍が呪寄装備なしで突破したのは初耳だった努は、ユニスが床に広げて読んでいた新聞を手繰り寄せた。突然身体を傾けてきた彼にユニスは警戒するように尻尾をうねらせつつも、狐耳をピンと立てたまま微動だにしない。
その記事に書かれていたのは昨今の呪寄装備に頼っている中堅探索者たちを二流と腐し、それを後押ししている努に対しても苦言を呈した内容だった。そのインタビューを受けているのは当然、二人だけで160階層を突破したアルドレットクロウのカムラとホムラである。
そんな記事を目だけで追って読んでいた努は、まさかと言わんばかりにその新聞を手に取った。そしてわなわなといった様子で震えだした彼を見て、ユニスは周囲を警戒する鳩のようにきゅっと姿勢を正した。ただ当人の顔を見た途端にその大きな尻尾は脱力した。
「疲れが吹き飛ぶような記事だね~。ここまで刻印した甲斐があった~」
「……そんなとこだろうと思ったのです」
「ディニエルとかはだんまりだったからなー。みんなが今どんな気持ちなのか推察するのも楽しいけど、こうして記事に出しちゃうあたりたまらないねぇ。このお気持ち表明で食う飯は美味いぞ?」
人の苦しむ姿を見て恍惚な表情を浮かべる悪魔のような努の表情に、ユニスは救えないと言わんばかりにため息をついた。
そうして刻印作業を進めていき数時間が経過した頃、一時間おきに呪寄装備を持ってきていたドワーフが手ぶらで部屋に入ってきた。
「お疲れ様です。ようやく一息つけそうですね」
「そっちもお疲れ様。もうしばらくは呪寄見たくもないね」
一週間も経てばウルフォディアを突破済みのPTが増えて呪寄装備のメンテナンス需要も徐々に減り、刻印マシーンと化していた努も今日の納品分でようやくフル稼働せずに済むようになった。
そんな努に光の魔道具ペンで呪寄を加工し供給し続けていた、髭も蓄えていないまだ半人前の若々しいドワーフ。彼もうんざりしたように手首を回した後、そっと褐色の拳を向けてきた。
それに努がグータッチで応えると、彼は朗らかに笑みを深めた。
「飲み、行きません?」
「……風呂入って浮島階層行きたいんだよね」
「えぇ……?」
「いや、これから飲み行こうとする奴も大概だろ。ヒール」
「ん」
ずっとペンを握っていたであろう彼の手を労わるように努がヒールを飛ばしていると、ユニスがそれを遮るように拳を入れた。そんな彼女にドワーフはきょとんとした後にカラカラと笑い、努はサークルクラッシャーでも見るような目を向けた。
「手、ちっちゃ」
「もう刻印してやらないですよ」
「わかったわかった。お疲れ様」
「ユニスさんもお疲れ様でーす!」
そうしてトライアングルでも組むように拳を突き合わせ、三人は修羅場を切り抜けたことを祝った。それから部屋を出て出勤してきていた社員とも納品終わりを労わり合った後、努は久しぶりにシャバの空気を味わう気分でクランハウスへと帰った。
帰ってからすぐさま二階の浴槽に組み込まれている魔道具に炎の魔石をぶち込み、少し熱めに調整した湯を張る。それから油臭い身体を自分用のボディソープとシャンプーで洗い流した後、湯船に溶けるように浸かった。
ようやくベタつきから解放された努は爽快気分で浴槽から出て、手早く身支度を済ませた。そして夕食の下ごしらえをしていたオーリから貰ったサンドイッチを片手に家を出て、遠目の神台を眺めながらギルドに向かう。
(……これなら飲みの席に付き合っておいた方が良かったかも)
ただ時間帯が丁度昼休みを過ぎた頃であり、神台を見る限り無限の輪のクランメンバーは出払っていた。とはいえ予定では翌日から呪寄地獄から解放される見通しだったため、仕方のないことではある。
(浮島階層、ここまで階層更新が順調なパターンだと中ボスか階層主でバランス取ってそうだな。ミミックくらいでしか全滅しなさそうだし)
各階層で一定数の宝箱を飛行船に納品することで進んでいく浮島階層は、現在アルドレットクロウの一軍が首位で164階層まで攻略されていた。そのペースからして恐らくそうなるだろうなと努は見込みつつ、多数の中堅探索者がウルフォディアに挑んでいる下位の神台も眺める。
(いけそうな奴らは大体突破したけど、お下がり呪寄装備でも駄目なのは実力不足すぎるなぁ。それでも一定数は上がっちゃってるんだけど)
浮島階層は探索しやすい割に宝箱の出現率が明らかに高いため、稼ぐには丁度良い階層なのでとにかく人手が欲しいところだろう。そのために分不相応な実力で160階層に挑んでいる者もいるが、それでも呪寄装備があれば戦いにはなる。
それに中には既に突破済みの探索者たちが補助する形も増えてきたので、露骨にキャリーされての160階層突破も珍しくなさそうだ。こうなってしまえばもうウルフォディア突破の価値は下落する一方だ。
(その分二人だけで突破したPTはより特別感が出ると思ったんだけど、今となってはもう遅いか。可哀想になぁ)
「あの、すみません」
実質三番目に二人PTでのウルフォディア攻略を果たしたカムラホムラも確かに凄いはずなのだが、そこまで話題にはなっていないし今となっては32番台だ。そうなってしまったことに少々の罪悪感と優越感に浸っている最中、人気の少ないギルドで努に声を掛けた者がいた。
「……あー、フェンリルの?」
「どうも。フェンリルの人です」
アルドレットクロウの上位軍であり現在暇を出されている精霊術士の女性は、短めに切り揃えられた銀色の髪を揺らしながら嬉しそうにはにかんだ。
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