それでも生きたい(まりとミクとれみとノゾミ)

ピエレ

 それでも生きたい(まりとミクとれみとノゾミ)

 彼女はミクという名前でした。ミクというのは、まり、という人につけられた名前です。まりは毎晩ご飯をくれたので、ミクはいつも体をすり寄せ、喉を鳴らし、甘えていました。

 ある冬の晴れた日、お日さまが恋しくて、ミクはフワフワ散歩に出かけました。スズメたちを追いかけて遊んだ後、草土の上でポカポカ幸せな夢を見ていました。

 ふいに劇痛が右半身を突き抜け、ミクは悲鳴をあげて目覚めたのです。彼女の体を巻き込んで通り過ぎる大きな車輪が、涙ににじんで見えました。何が起こったのか、ミクには分かりませんでした。ただ恐ろしい不幸に襲われたのです。

 重苦しい痛みに呻き声をもらしながら、ミクはまりの元へ這いました。痺れる右半身を引きずりながら、左足だけで這いました。右目はかすんでよく見えません。右耳も耳鳴りがしてよく聞こえません。息も絶え絶えたどり着いた時、まりは眉をひそめて言いました。

「まあ、ミクは、妖怪みたいになって。ああ、どうしましょう」

 車に乗せられ、いくつもの町を過ぎました。見知らぬ山の近くの田舎町のコンビニエンスストアに車は停まり、店の裏に傷ついたミクは降ろされました。

「行かないで、まり」

 とミクは声の限りに叫びました。

 だけどまりは何も言わずに去ったのです。

 ミクは泣きながら傷をなめ、折れた前後の右足の痛みに耐えていました。しだいに空腹も体をしめつけてきました。

 近くでせせらぎの唄が聞こえ、ミクは左足で進んで行きました。

 田畑を流れる小川にたどり着き、水を飲んで腹を満たしました。

 水面に映る自分の顔を見て、ミクは悲しくなりました。

「妖怪みたいになって」

 というまりの言葉が、ミクの胸を何度も突き刺しました。

 三羽のカラスが、すぐ近くに降りて来ました。

「こいつ、弱ってるみたいだぞ」

 と一羽がよだれをたらして言います。

「やっちまおうか」

 と別の一羽が意地悪な言葉を発しました。

「もう少し、弱るのを待とう」

 ともう一羽が悪魔のような黒い声でささやきました。

 ミクは全身の毛を逆立てて、コンビニへ戻って行きました。

 黒い敵が背後から迫り、硬く尖ったクチバシでミクの背を突きました。

 ミクは叫び声をあげて、カラスの首に咬みついていました。命がけで牙に力を注ぎ込みました。驚いたカラスも叫び声をあげました。黒く光る翼をバタつかせ、刃物のような爪でミクの胸を突いて、離れました。

 地獄の底までついて来そうな黒の悪魔たちへ「シャアシャア」荒い息で攻撃しながら、ミクは懸命に田畑から脱出して、コンビニの裏に戻りました。

 女が一人、ミクに駆け寄って来たので、カラスたちは遠ざかりました。

「あら、まあ、あんた、どうしたの?」

 と女は聞きました。

「痛いよう。痛いよう」

 とミクは涙の声で訴えかけました。

「ごめんね。わたし、今日は大事な仕事があって、かまってあげられないのよ」

 と言いながらも、女はしゃがみました。

 ミクは傷ついた右前足を祈るように女へ差し出しました。

「お腹すいてるの?」

 白い指がミクの頬にふれました。

「お腹、ペコペコなの」

 とミクは言って、温かい指をなめました。

「名前は何て言うの? わたしは、れみ、だよ」

 そう言って、れみという女は、買ったばかりの鶏肉を分けてくれました。

「うわあ、うわあ・・」

 ミクは感動の声をもらしながら、そのごちそうを食べました。

 れみは、ミクを撫でながら言いました。

「わたしが名前をつけてあげようか。あんた、女の子ね? そうね、あんたは、ノゾミ、って名が似合っているね。ノゾミというのは、希望という意味だよ。ねえ、ノゾミちゃん」

 それでミクは、ノゾミという名に変わりました。

 だけどノゾミが鶏肉を夢中で食べている間に、れみはいなくなったのです。

「れみ、れみ」

 とノゾミは命の限り叫びましたが、またひとりぼっちになりました。

 辺りは暗くなり、白く冷たいものが舞い始めました。寒くて、体がガタガタ震えます。

 ノゾミは、店の前のゴミ箱から、おいしそうな匂いをかぎ取りました。悲鳴をあげる体を精いっぱい伸ばして、ゴミ箱の穴へ登り、中へ入り込みました。食べ残しや飲み残しをなめながら、ノゾミは寒い夜をゴミにくるまって過ごしました。

「さみしい」

 と泣きながら、長い夜を過ごしました。

 痛みのために怖い夢をたくさん見て、朝を迎えた時、ゴミ箱が開けられ、店の男の黒い目がノゾミを見下ろしました。

「助けて」

 と、ノゾミは男を見つめて訴えました。

 だけど男の眉間に怖い縦じわが寄ったのです。

「何だ、こいつは?」

 大きな手が伸びてきて、無抵抗のノゾミの首根っこをつかみ上げました。


 れみが、田舎のコンビニに再訪したのは、みぞれ交じりの昼でした。

「ノゾミちゃん、ノゾミちゃん、どこ?」

 店の周りにいないので、田畑を捜してみました。

 あの傷ついた体で、どこへ行ったのでしょう。みぞれがれみの頬を刺し、電線のカラスたちが「クワア、クワア」鳴声をあげました。

 コンビニに戻り、店に入って、店長に尋ねてみました。

「ケガした猫を知りませんか?」

「猫? こげ茶の、しま猫?」

 と、男の店長は聞き返します。

「ええ、キジトラ猫です」

 と、れみは言いました。

「その猫が、どうしたの?」

 れみを見つめる店長の目が、一瞬吊り上がりました。

 れみは、とっさに嘘を言いました。

「ノゾミちゃんは、わたしが飼っている猫なんです。昨日、事故にあってしまって・・」

 店長はまぶたにしわを寄せた上目づかいでれみを見て、こう言いました。

「今朝、ゴミ箱の中にいたから、動物管理センターに持って行って、引き取ってもらったよ」


 ノゾミは、仲間たちと、狭い獄舎に閉じ込められていました。

 そして何かの順番を待っていました。

 ここでもノゾミは疼く傷をなめていました。そして仲間たちの悲鳴を嗅ぎつけ、小刻みに震えていました。

「ここから出して」

 仲間たちの叫び声が牢獄に沸き起こりました。

「ここから出して」

「ぼくは、ここにいるよ」

 コツコツと、狭い廊下に響く足音が近づいて来ました。何の足音でしょうか。

 叫び声は絶叫に変わりました。

「助けて」

「生きたいよお」

 だけど彼らは問答無用でガス室へと運ばれたのです。凶悪な罪を起こした殺人犯のように。そしてもがき苦しんだ末に、生死の確認もなく焼却炉の炎に焼かれました。希望に輝いた瞳も、愛を求めて鳴らした喉も、生きたいと拍ち続けた心臓も、灼熱の炎に焼かれ、廃棄されたのです。

 しばらくして、また、コツコツ、人間の足音が響いてきました。

 いよいよノゾミの番が来たのでしょうか。

 ドアが開けられ、そして閉じられました。

 ノゾミの周りの仲間たちが命がけで叫びました。

「ここから出して」

「ぼくはここにいるよ」

「わたし、生きたいよお」

 ノゾミも、仲間たちと同じように、耳を澄ませ、匂いを嗅ぎ、叫び声をあげました。

「あたし、ここにいるよ」

 誰かの黒く光る瞳が、ノゾミたちを覗き込みました。

「このこです。このこが、わたしの、家族です」

 と言ったのは、悲しい顔のれみでした。

「れみ」

 とノゾミは呼びました。

 開かれた鉄格子の上から、れみは腕を差し入れ、ノゾミを抱き上げました。

 れみには分かっていました。ノゾミを選ぶということは、他の大勢を見殺しにすることだと。だけど今のれみには、こうすることが精いっぱいなのです。

 れみの胸の熱い鼓動に抱かれ、ノゾミはもう一度「れみ」と呼びました。











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それでも生きたい(まりとミクとれみとノゾミ) ピエレ @nozomi22

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