第48話 花の名前

 その晩、夕食を速やかに済ませたりょうたは自室へ戻る。机に向かうなり、りょうたは放課後に図書室から借りてきた植物図鑑を広げた。そこには数多くの植物が写真付きで紹介されており、初見では全てを把握しきれない。

「オオバコ。オオバコ科オオバコ属の多年草――」

 りょうたは、もえの描いていた植物の解説を食い入るように読んでいく。図鑑の隅々まで読んだところで全ての植物を把握できるわけではないが、植物の一つ一つには違いがあって名前があるという事実をりょうたは実感しているに違いない。

「植物はそれぞれ個性があって、みんないい。けれど、それなのに僕達はどうしてこうも比べたがるんだろう?」

 植物図鑑を読み進めていくうちに、りょうたは何か悟りを開こうとしている。かの仏陀ブッダも、ハスの成長過程に混沌とした現世と澄み切った浄土を見たくらいだ。植物は、人を惹きつける何か特別な魅力を秘めている。

「......!?」

 図鑑を読み進めているりょうたの手が止まる。もとい、魅入られている。手を止めたページの何かに魅入られ、りょうたは心を奪われてしまっている。果たして、そのページには何が映っているのだろうか?

「......はっ!? いけない!」

 りょうたは我に返り、再び図鑑を読み進める。植物図鑑の何かに魅入られたりょうたは、背後から忍び寄る影に気付かない。

「りょうた、今日はまるで本の虫ね?」

 図鑑を読み進めていたりょうたの背後に、険しい表情をしたのりこが立っていた。その言葉を、のりこは皮肉を込めて発していたように見受けられる。

「......びっくりしたぁ! 傍にいるなら、一声掛けてくれたっていいじゃないか!」

 しかし、のりこはいつからそこにいたのだろうか? そんなことはりょうたが知る由もない。

「何言ってるの? さっきから何度も声を掛けたじゃない!」

 りょうたの言葉を聞いて、のりこは不機嫌になる。周囲の声が聞こえなくなるほど、りょうたは植物図鑑に夢中になっていた。

「ごめん......」

 熱中したあまりのりこの声が耳に入らなくなっていたことを、りょうたは申し訳なく思った。そんなりょうたの態度を尻目に、のりこは彼の机で見開きになっている図鑑を眺める。

「へぇ、植物図鑑? インドアのりょうたにしては珍しいじゃない?」

 それを見て、のりこはりょうたの行動を訝しむ。普段はスマートフォンに噛り付いていたりょうたが、図鑑を借りてきて熱中することを不審に思うのも当然だろうか。

「おねえちゃん、植物の世界は奥深い。道端の雑草にだっていろんな名前があるんだ。ハトムギ、ドクダミ、ツキミソウ――」

 植物に魅せられたりょうたは、のりこにその魅力を力説する。しかし、りょうたの一方的な熱弁をのりこは一蹴する。

「......悪いけど、その話には付いていけないわね」

 りょうたの性格上、一度熱中すると話は延々と続いてしまう。それを承知しているのりこは、早々に話を切り上げてその場を立ち去ってしまう。

「あぁ、残念だなぁ......。この世には、一生に一度しか見られない花・・・・・・・・・・・・・だってだってあるのに......」

 りょうたは大きなため息をつく。それまで植物に疎かった彼が魅了されたもの、その正体や如何に......?

 ――翌日、りょうたは昼休みをもえと過ごしていた。昨晩読み耽った植物図鑑の知識を、りょうたは実践している最中だ。

「えーっと......これはマムシグサ?」

 のりこに本の虫と皮肉られながらも、図鑑に噛り付いていたりょうた。しかし、実物を目の当たりにするとそれは心もとない。

「ううん、これはウラシマソウ。花から伸びる長いつるが特徴だよ」

 もえは両者の違いを的確に見分けている。図鑑の知識も大切だが、やはり実物を見てきた人物には敵わない。

「うーん......植物って難しいなぁ」

 植物の違いにりょうたは苦悶する。違いの分かる男、その道のりは遠く険しい。

「けど、りょうたくんは植物のことを勉強してきたんだね? 嬉しい!!」

 もえから笑みがこぼれる。りょうたのみえない努力を察して、彼女はご満悦だ。

「もえちゃんのこと、もっと知りたくてさ?」

 もえの屈託のない笑顔を見て、りょうたはほんのり頬を赤らめる。好きな人の笑顔は何よりも眩しい。

「......あ、こんなところにイチゴが生えてる!」

 りょうたの足元に赤い果実をつけた植物が生えていた。しかし、それを見たもえは即座に首を横に振る。

「これはヘビイチゴ。イチゴにそっくりだけど全然甘くないの......」

 もえは心なしか悲しげな表情を浮かべている。もしかしたら、彼女は過去にヘビイチゴを実食して後悔したのかもしれない。

「そうなんだ。練乳をかけてもダメかなぁ?」

 そう言うと、りょうたはおもむろにその果実を口にする。ヘビイチゴに救いはあるのか? 彼はその可能性を探る。

「うん、この味は絶望的......」

 ヘビイチゴの救いを見出すことは叶わなかった。イチゴもどきはあくまでもどき、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る