第16話 ほむら喫茶

 とある昼下がり、良行は上司とともに定期預金を勧誘する営業に出ていた。

「今時、定期預金組んでくれる人ってなかなかいませんよね......」

 良行は溜息交じりに言う。

「そうだね。今はネットバンクの方が利率いいしね?」

 良行と同じように意気消沈気味の彼女は、久住薫。湾岸銀行羽馴島特別出張所の所長代理であり、良行の上司に当たる。ボブカットに黒縁丸眼鏡が特徴的な女性である。

 薫は、ふと閃いたように両手を合わせる。

「せっかくだから、気分転換にお茶していかない? 私、いいとこ知ってるの!」

 良行はその誘いにまんざらでもない、その誘いに乗ることにした。

 薫に導かれるまま、良行は歩みを進める。しばらくすると、レンガ造りの古めかしい店舗へ到着した。どうやら、ほむら喫茶というらしい。年季が入っていて扉の建付けは少々悪いが、薫は慣れた手つきで扉を開ける。

「マスター、来ちゃったよぉ!」

 馴れ馴れしい口調で声を掛ける。

「いらっしゃい」

 マスターは、物静かでありながらも眼光が鋭い。自身の心の奥底が見透かされそうだ、良行はそう感じた。

「.....貴様、また来たか」

 店には先客がいた。作務衣姿の男だ。彼は筋骨隆々で、こちらも眼光鋭い。彼の口調からすれば、おそらく二人は常連客なのだろう。

亜細亜あじあ君、君も暇だねぇ?」

 薫は少しばかりからかい口調で言う......というより、この男は亜細亜という名前なのか? 良行は、思わず彼を奇異の目で見てしまった。

「貴様こそ、野良猫のように徘徊しおって」

 皮肉には皮肉で返す、これが彼の流儀のようだ。

「徘徊とは失礼な。営業ですよ? え! い! ぎょ! う!」

 薫は少しむきになる。それより早く席に着こうよ、良行はそう思っているが言えない。

「どうせまた、契約が取れなかったのであろう?」

 亜細亜の指摘はまさに図星。薫は観念したのか、言葉を返さずカウンター席に着く。良行もそれに合わせて席に着く。

「マスター、いつもの!」

 薫は、少々不貞腐れた口調で注文を入れる。

「今日は私のおごり。良行君は何を飲む?」

 不貞腐れながらも、彼女は粋な計らいを見せる。

「それなら、ほむら珈琲で」

 良行は、店の看板メニューで様子を見ることにした。

「......すみませんね、二人はいつもこうなんです」

 マスターはどこか申し訳なさそうに話す。彼にとって、これは日常風景の一部なのだろう。

 手元にはネルが置かれている。現代では様々な抽出方法でコーヒーを抽出できる中、敢えてネルドリップを選択するあたりに趣深いと良行は感心した。

 ネルに粉が注がれる。コーヒー豆は粗挽きのため、若干砂利のような音がする。普段聞き慣れない音に、良行はうっとりしてしまう。いや、聞き惚れたという方が適切か。そこへ、ドリップボトルから熱湯が軽く注がれる。香味を引き出す蒸らしだ。すると、店中にコーヒーの香りが広がっていくのがわかる。何とも言えないほのかな香ばしさだ。

「......心地いい音、心癒される香り、たまらなぃ」

 良行は、ネルドリップの音と香りに魅せられてしまっている。この想いを誰かに伝えたい、そんな感情だ。

 店内の心地よい沈黙の中、亜細亜がおもむろに口を開く。

「......貴様のその能力、実に惜しいわい。無駄遣いと言ってもいい」

 亜細亜は皮肉交じりなことを言う。コーヒー抽出に能力? その言葉、良行にはしっくりこなかった。

、と言いましたっけ? 構いません、私は争いが嫌いですから。私はただ、最高の一杯に心を注ぐだけです」

 マスターは、手元のネルドリップから再び湯を注ぐ。その線は限りなく細く注がれ、ネルの中で泡沫が優しい香りとともにブクブクと歌い出す。コーヒーを抽出する彼の瞳は、静かに燃えている。それはさながら、明鏡止水の心境と言っていいだろう。

 コーヒーが静かにドリップされていく中、良行は疑問を抱く。覇道ってなんだ? そんなドリップ法があっただろうか??

「出た出た、マスターの覇道。コーヒーに魔法がかかる瞬間がたまらない......」

 薫の話から、覇道とはコーヒーが美味しくなる秘術か何かだろうか? しかし、それでは亜細亜のいう惜しいの言葉から遠ざかるような気がする。良行の疑問は早くも迷宮入りしそうだ。

「亜細亜さん、あなたも懲りない人ですね。死線を彷徨さまよってなお、戦うことを考えている。」

 マスターの口ぶりから、亜細亜はどうやら戦いに身を置いていたことが窺える。

「戦いの中で、戦いを忘れた......それだけだ」

 亜細亜は深く語ろうとしない。戦いとは何を指すのか。総合格闘技などのスポーツとしてか、それとも別にあるのか。覇道とは、戦いの中にある何かかもしれない。今の良行に、それ以上推し量ることはできなかった。

 永遠に思える時間の中で、マスターはコーヒーの抽出を終えた。ネルが外されたカップには、亜細亜の心を映すように漆黒の闇が広がっていた。

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