6.サファイアを巡る攻防(3)
(早すぎんだろうがよおおお!)
その瞬間叫び出さなかった自分を、誰か褒めるべきだとアリアは思った。
なんという嗅覚だ。たどり着くのが早すぎる。
冷や汗を浮かべるアリアの前で、ラウルはゆっくりと広間を見渡し、ふと一点で、視線を止めた。
目が合う音が、聞こえるかと思った。
こつ、と、彼の靴音が響く。
ラウルが階段を一段下り、銀の髪がなびくたび、観衆から恍惚の溜息が漏れた。
女たちは陶酔の色を浮かべて口を半開きにし、男たちは一歩下がる。
自然にできた道を、悠々と歩き、ラウルはとうとうやって来た。
アリアの元へ。
「また」
完璧な形の唇が、静かに告げる。
「目が合った」
その瞬間、アリアは自身の失態を悟った。
まじまじと見返してはいけなかった。
ほかと同様に、あほ面をして腰を抜かすべきだったのだ。
(あほ面……うっとり顔……今すぐ!)
だが悲しいかな、ひねくれ者のアリアは、生まれてこの方なにかに恍惚としたことなんかない。
「恋にのぼせた表情」の持ち合わせがなかった彼女は、咄嗟に両手で顔を覆った。
「あ……っ」
極力か細い、頼りなげな声を出してみせる。
「あ、あの……?」
息を止めて、頬を紅潮。
目も潤ませる。
美貌の騎士を前に、緊張で震える初心な少女。
これでどうだ。
「聖騎士、さま……?」
己の唇から発される甘い声に、我ながら寒いぼが立った。
(あたしが「烏」だと確信してるわけ? なんで? いやほんと、なんで?)
女、とはバレたかもしれない。
だが、この会場内に数多いる女の中で、アリアを「烏」だと特定する手掛かりなんて残さなかったはずだ。
声色だって変えていた。
(まさか、「彼に恍惚としない女」っていうのが、それほど希少だとでも?)
貴族社会に紛れて日が浅く、基本的に男嫌いで、しかもバルトという精霊と気安く話しているアリアは、知らなかったのだ。
強大な精霊力を持つラウルを前にして、自我を保って発言するというのが、どれだけ異様なことなのかを。
「私はラウル・フォン・ヴェッセルス」
耳に心地よい声が、唐突に名乗る。
「え……?」
「君は」
正体を問われているのだと悟り、アリアは唇を引き結んだ。
(誰が言うもんか!)
ここで男爵家の娘とバレるわけにはいかない。
取り調べを受けるのは、せめてドレスの裾に隠した諸々を、処分した後でなければ。
(その場しのぎだとしても、ここから去らなきゃ……)
ちら、と背後に視線を泳がせたのが悪かったのだろう。
逃がさないとばかり、ラウルがアリアの腕を掴んだ。
「明かさないのなら、強引に連れていくことになる」
顔を寄せられ、睦言のように告げられる。
心臓をばくばくと高鳴らせながら、アリアは思わず彼の顔を見つめ返した。
「……そんなことを」
連行するというのか。
この自分を。
「聖騎士様がなさるのですか……?」
聖騎士ともあろうものが、証拠もなしに?
含意は伝わったのだろう。
恫喝でもされるかと思いきや、ラウルの反応は意外なものだった。
「…………」
その完璧な形の唇を、ふと綻ばせたのである。
「きゃあ……!」
すっかり観衆と化していた周囲が、一斉に歓声を上げる。
それをものともせず、ラウルはアリアの腕に、長い指で触れた。
「手袋を、外しても?」
厳密には――甲に血を滲ませた長手袋に。
(ああ、やっぱり)
アリアはぐっと腹に力を込めた。
先ほど彼が投擲した短刀。
膝に当てて転倒させることもできただろうに、それをしないのはなぜなのか、気になっていた。
距離が遠かったから?
いいや、彼はかなり遠くの壺さえも、違わず粉砕できてしまう男だ。
容疑者に重症を負わせなかったのは、アリアが女だったから。
そして、それでもなお、生活に支障の無い程度の傷を付けてみせたのは、
(
その傷をもって、正体を照合するためだ。
こちらを掴む腕は揺るぎなく、長い指は優雅かつ強引に、手袋を引き抜く。
万事休す――。
(って、思うじゃん?)
だがそこで、アリアはふ、と淡く笑みを浮かべた。
「あの……っ」
横から声が掛かったのは、そのときだった。
「ラ、ラウル様! どうかわたくしの手も、お検めくださいませ!」
なんと、顔を真っ赤にした女性が、話に割り込んできたのである。
彼女こそは、アリアが先ほど「あること」を吹き込んだ男爵令嬢・バルバラであった。
「まあ! そ、それでしたら、わたくしも!」
「いいえ! わたくしもどうか……!」
バルバラの蛮行に勇気を得たか、周りの令嬢たちも次々にラウルに近付いてくる。
皆が皆、己の長手袋を引き抜き、ラウルに見せつけようとしていた。
「
手の甲にできた、傷をだ。
ラウルがその碧い瞳を見開く。
そう。
アリアはこのわずかな時間で、令嬢たちに、「聖騎士様は、己を庇って手の甲に切り傷を負った女性を探している。見つけ出した暁には、デートの申し込みをしたいそうだ」と、嘘八百を吹き込んでおいたのだ。
ラウル・フォン・ヴェッセルスは寡黙な騎士だ。
崇高で、清廉で、近寄りがたい。
けれど、もし手の甲に切り傷をこさえるだけで、彼と話すきっかけが得られるのなら?
令嬢たちはその機会に飛びついた。
グラスの縁や髪留めで、手の甲を傷付けてでも。
「わたくしも」
「わたくしもですわ」
ラウルが珍しく動揺を見せたその隙に、興奮した女たちは一斉に迫っていった。
アリアはすかさずその波を利用し、ラウルから距離を取る。
淑女の庇護を信条とする騎士は、剛剣による攻撃は躱せても、強引に女性の波を押しのけることなどできないのだ。
(ありがとう、肉の盾! みんな、今日はとっても美人ね!)
高慢な貴族令嬢を毛嫌いしているアリアだが、今日ばかりは上機嫌に相手を褒めちぎる。
なんなら頬にキスしてもいいくらいだった。
「待ちなさい――」
ラウルがこちらに手を伸ばす。
ああ、けれど、理性を失った女性たちに押し寄せられて、身動きが取れない。
(残念無念、また来世)
庭までたどり着くと、アリアは、微笑みながら淑女の礼を取った。
「ごきげんよう」
それから、喧噪に紛れてするりと、会場を抜け出した。
『おお、アリア! 無事だったか! 首尾よく逃げたな!』
すでに庭に回り込んでいたらしいバルトが、即座に肩に乗ってくる。
無意識に彼の背中を撫でながら、アリアは小さな呟きを漏らした。
「全然」
『え?』
「全然首尾よくなんかない。控えめに言って超やばい」
なんとかこの場は逃げ出した。
あのすかした聖騎士の、裏を掻いてやった。
けれど、庭の夜風に当たっただけで、その興奮はたちまち冷めてしまう。
代わりに胸を満たすのは、冷静な未来予想と、焦りだ。
(目を、付けられた)
彼はアリアの名前なんて、すぐに割り出してみせるだろう。
証拠は処分するし、尋問されてもしらを切るつもりだが――きっと彼は、アリアを上回る速さと手段で、こちらに肉薄してくる。
「天にまします我らが母よ、哀れな娘をお助けください」
思わずアリアは、胸に下げている金貨を、ドレス越しに握り締めた。
「あたしは絶対、捕まらないんだから」
夜空に浮かぶのは、満月。
ひっそりと、けれどどこに隠れても清冽な光を投げかけてくる月のことを、アリアは金色の瞳で睨み上げた。
******
ここまでで序章、といった感じで、以降アリアvsラウルの攻防が激化していきます。
気に入っていただけた方は、ぜひご評価を!
そして、かかか感想とか感想とかあとは感想など、両手を広げてお待ちしております!
明日も更新頑張りまーす!
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