001 私と喧嘩と馬鹿野郎
「よぉ、花宮古涼音ェ……」
校門を抜けると、私の前に大岩のような男が現れた。
額に瘤があり、目は細く、口は下卑た笑みを浮かべている。
青膨れの顔、そして成人男性二人分はあるのではないかという巨漢。
学生服のボタンは前で閉めきれず、開けっ放しになっている。
喧嘩に今まで打ち込んできたような筋肉質な手には一本竹刀が握られている。
彼の瞳は私をまっすぐに見つめていた。
「……また来たのか、太田部」
太田部桑ノ助。
隣校の学生で、『裏校の筋肉バカ』と恐れられている。二つ名がそれでいいのか、とは思うが実際この男の悪評は聞き及んでいる。
私はすっと片足を引き、鞄を胸の前に構える。
太田部は私を見下ろし、竹刀を投げ渡す。
黙ってそれを空中で受け取り、私は素早く構える。
太田部は手ぶらだった。
けれどその拳だけが自分の武器だ、と言わんばかりに自分の拳と拳をぶつけ合わせた。
「やろうぜ、喧嘩をよォ」
「私は得物を持っているのに、貴様は素手で良いのか」
「俺は拳が武器だ。テメェは剣が武器らしいじゃねぇか」
確かに、昨日そんなことを言った気がする。
それでも太田部の攻撃はかわし勝ったのだが、彼は負けた事とは違う不満さを垣間見せていた。
それが、これか。
「お互い得意なモンでやろォや」
ぎらりと目を光らせる。
私への配慮ではない。
ただ平等に、真っ向からの勝負がしたいという彼の思いが伝わる。
小さく頷いた。
「承知!」
駆け出す。
太田部の拳は確かに当たればその痛みは鈍く、響く。当たれば無事ではいられないだろう。
だが、奴の攻撃は強力ながら馬鹿正直だ。
避ければ、意味はない。
高く跳躍する。
太田部が闘いを心待ちにしていたような、生き生きとした顔で舞う私を見上げる。
「人間技かぁッ⁉ それはァッ!」
嬉々としてそう叫ぶ太田部。
拳は先ほどまで私のいたところを空ぶる。
私は構えた竹刀の先で彼の額をとん、と叩き着地する。
一瞬何がされたのか分かっていなかったような太田部が、正気を取り戻すかのように首をブルブル振る。
そして改めて私を見下ろす。
「やはり強ぇな!」
満足そうに唸る。
私は竹刀を彼に投げ返した。
呆れてため息をついてしまう。
おっとっと、と彼は慌てながら竹刀を受け取る。
「何度やっても結果は同じだろう」
竹刀を見つめてうーん、どこが悪かったのか……と首を捻る太田部に、腕を組み私は言う。
だが彼は『いや』と首を振る。
これは譲れん、と断固とした調子だ。
「また来る‼」
真っすぐなその声に、私は思わず『しょうがないなぁ』と肩をすくめてしまった。
五日前だ。
疲れた体を揺らしながら、私は学校に向かう道を歩いていた。
時々朦朧としそうになる不完全の意識のまま私は道端で彼を突き飛ばしていたらしい。
彼曰く『軽トラにはねられたと思った』。
私はその場面を覚えていない。
だが、彼にとってそれは驚くべき、自分の根底を揺るがすような出来事だったのだろう。
以後、私は連日彼に勝負を挑まれる関係性になってしまった。
「またいるよ、あのひと」
放課後の喧騒の中、クラスメイトの騒めく声が聞こえる。私は教科書を整え鞄に詰め込みながらその声の方を向く。
窓辺に数人の女子が集まり、外を見下ろしている。
指差して囁き合うその様子だけで誰の事を指しているのか分かってしまう。
あのバカがまた来たんだろう。
うんざりする気持ちもある。
毎日放課後のこの時間に来るのだ。
「もう一週間かな」
「花宮古さんに毎日だもん」
「大変だよねぇ……。受験も控えてるのに」
まぁ、太田部の相手位はいつだって受けて立ってやる、と少しだけ笑う。
鞄のボタンをパチンと閉め、立ち上がる。
私が立つと窓辺のひそひそ声がすっとなくなる。
噂話よりも、興味は私の方に移ったからだ。
挨拶をしつつ教室を出る。
ふぅっと息を吐き、耳を澄ました。
ガラス窓に反射する午後の光。
人の流れに目を向け感覚を研ぎ澄ます。
首から下げたロザリオのペンダントを取り出し、きゅっと握りしめて息を整える。
————空気は淀んでいた。
まだ大したものではないが、着々とその病みは学校を蝕もうとしている。
フローリングの廊下に反射するうっすらとした人々の影が揺れる。
風が動き、肌に触れる。
廊下を行き、人を避け、階段を下りる。
息苦しい。
嗚呼、夜が近付いてくるのが分かる。
現象としての夜ではなく、魔物の棲む時間としての夜がこの平穏の時間のすぐ裏側に————。
「よォ」
校門前を通り過ぎようとすると、聞き慣れた声がした。
「またか」
彼は校門から背を離し、のっそりと私を見据えた。
「俺はお前に勝つために通っているんだからな」
力強くそう言う。
何の捻りもない、まっすぐな姿勢だ。
笑ってしまいそうになるくらいに。
すがすがしいくらいに。
だから、断ればいいのに私はまた呟いてしまうのだ。
「よかろう。じゃあ始めようか」
この挑戦の時間が嫌いになれないのだから。
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