第8章 家族のサイゼリヤ

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 終わった。マジでそう思った。俺を乗せたパトカーを囲む警察車両の物々しい行列とか、上空で爆音立てながら威圧的に弧を描く数機のヘリコプターからして、ただごとじゃねえなってのはすぐ分かった。ふとした会話からマスコミの取材がたくさん入ってるらしいってのも窺い知れた。まず会社はクビだな。そんで、前科もつくかもしれねえ。交通違反ってのはふつう反則金と違反点数だけの処分が下されて、悪くても免許取り消しと十万円程度の罰金で済むんだが、悪質な飲酒運転なんかで実刑に至ったケースも知ってる。俺がやらかしたのはまさにそれらしい。略式起訴ってのをすっ飛ばして正式に起訴される流れらしく、もしかすると懲役を免れねえそうだ。

 柔和そうな表情の、けど貫禄の漂う初老の刑事さんに細部をいろいろ尋ねられたが、俺は一切の抵抗を諦めちからなく頷いて、言われるままにほとんど全部を認めた。まあ逆走とか、速度違反だとかは、言い逃れのしようもなかったし。けど、「ヒトミの受験に遅れそうだったから」ってのは、口が裂けてもゲロしなかった。言えば、わずかに情状酌量されて、執行猶予が付いたりするだろうか。どうでもいいや。俺はヒトミとは他人にすぎねえんだ。だから俺は刑事さんに繰り返し言ったとおり、「渋滞にむしゃくしゃして思い切り飛ばしたくなっただけ」なんだって、思いこもうとしてた。実際、それだけのような気もする。刑事さんが「娘さんも心配してる」なんてベタな言い口で情に訴えようとしてきたけど、そんなもん俺には効かねえ。俺は単純で誘導尋問にすぐ引っかかるような馬鹿だけど、なかなか頑固なとこもあんだぜ。俺はヒトミには高校に合格してほしい。

 刑事さんが熱いお茶を出してくれたけど、自白剤でも入ってんじゃねえかってビビり、手を付けんかった。喉がからからで、その割に小便行きてえ。ああ、明日、会社行けんのかな。行けねえだろうな。俺が休んでても誰も気づかねえような職場だけど、クビになったらちょっとは心配してくれんのかな。シゲチーなんかは笑いそうだな。「そういうとこっすよね、ミキオさん」って、あの呆れたような口調で。

 狭くて呼吸もろくにできねえ取調室で、まな板のうえの雑魚みてえに今後のことを憂いてたら、にわかに外が騒めきだした。なんか揉めてんのかな。女の怒ってるような声がする。それにしてもこの声、どっかで聞いたことがあるような……。

 取調室の扉が開いて、刑事さんが戻ってきた。ベテランらしくもねえ狼狽した様子で、しきりに外のことを気にかけてる。俺と目が合うと、表情を再び引き締め、しかしこれまでになく優しい口調で言った。

「面会を希望されているご家族の方がいらっしゃいます。お会いになられますか?」

 意味が分かんなかった。家族? 俺に家族なんていねえよ。血縁のある両親だとかはとっくに勘当状態だし、ヒトミとは血縁がねえ。そもそも、俺なんかに会いに、誰が来るっつうんだ。

 いや、違う。俺にはひとりだけ、家族がいた。血縁のある、将来を約束した、そんで、こういうとき真っ先に俺を助けに来そうな「家族」が、たったひとりだけ、いた。

「お兄ちゃん!」

 その叫び声とともに、取調室に入ってきたのは、やっぱイズミだった。昔と、ぜんっぜん変わってねえじゃん。相変わらず釣り目がすっと通った凛々しい顔つきで、細くて色の薄い唇がきりっと締まってて、背が高くて、痩せてて、姿勢がいつもしっかりしてて、そんで、透明感のある純水みたいな声で、俺のことをそんなふうに呼んだんだ。今もその無垢な呼び名には何も余計なもんが含まれてねえ。その純粋さで、俺たちは「家族」になることを約束したんだ。あのガソリンくせえ軽自動車の、クソ狭い後部座席で、汗ばんだ手を絡み合わせて。

「あっ、ちょっと妹さん、困りますよ。面会はちゃんとした場所でやってもらわないと」

 刑事さんがイズミを阻止しようとしてる隙間を通り抜けて、ヒトミが取調室に入ってきた。ずっと泣いてたのか、目が痛々しいぐらいに赤く血走ってた。イズミと比べりゃずっと不細工で、イズミと再会した甘ったるい感傷が一瞬で霧散する。代わりに苦々しい罪悪感がふつふつと湧き上がってきた。

「……お前、受験は……」

 取調室に時計は見当たらず、時間は分かんねえ。けど、恐らくまだ午後に差し掛かってない筈で、学校で試験を受けてなきゃいけない時間だ。

「ミキオ、馬鹿じゃないの。あんなことあって、わたしが試験を受けられるわけないじゃん」

 ヒトミは俺を睨んで言った。怒ったとき、ヒトミはいつも俺のことをそんなふうに呼んだ。その呼び名には、余計なもんがむちゃくちゃ含まれてる。だから俺たちゃ「家族」にはなれんかった。軽自動車の、助手席にはいつも乗せなくて、手を繋いだことなんか一度もねえ。ヒトミの手紙にあった「いつも申し訳なさそうにしてる」の一節はそのとおりだ。だから怒ってんのか。俺はヒトミの怒ったとこをこれまでに何度も見たことがあるもんだと思ってたが、本気で怒ったとこを見るのはこれが初めてかもしんない。たぶん俺は、これまでで一番「申し訳なさそうにしてた」んだろう。

「馬鹿にしないでよ。わたし、あの後すぐに、高校の職員室に飛び込んで、頭下げまくって、電話借りてお母さんを呼び出したの。他に頼る人もいなかったし。屈辱だった。こんなことさせるミキオはほんと、最低だと思う。甲斐性なし。モラハラ。デブ。ハゲ。……ダメ親父」

 俺とヒトミが無言で目線を通わせてる背後では、刑事さんとイズミが苛烈に唾を飛ばしあってた。

「だから逆走の違反点数はたった二点ですよね。そう珍しくもないし、事故を起こしたわけでもないし、キップ切って終わりじゃないですか!」

「速度違反もあります。四十キロ制限のところを百キロ近くで走ったわけで、その場合……」

「違反点数十二点、十万円以下の罰金ですよね。いいですよ、罰金は私がお支払いします。違反点数は合計でも十四点。九十日の免許停止のほかに何かあります?」

「六か月以下の懲役がつくこともあります」

「それは八十キロ以上越えてた場合でしょ? 六十キロオーバーで懲役がついた判例あるんですか? そもそも、何キロ出してたかっていう証拠はないじゃないですか。あの路線にオービスありました? しかも逆向き。測ってないんでしょ?」

「しかしこれだけの事件になったわけで、社会的には……」

 制服を着慣れてない童顔の婦警さんが、携帯電話を耳に当てたまま慌ただしく取調室に入ってきて、刑事さんの耳元で何かを囁いた。「フトウタイホ」みたいな言葉が聞こえた瞬間、浅黒く日焼けした刑事さんの顔から活力が失われたように見えた。そのあと、簡単な遣り取りがあって、俺は結局、「通行区分違反」の違反点数二点と反則金九千円だけで開放してもらえることになった。イズミが俺に向かって意味深な目配せを送ってきた。何か手を回してくれたのか。イズミが今どこで何をしてるのか知らんが、ヒトミの手紙によりゃ、法律事務所ってとこで働いてるらしいから、その絡みかもしんない。昔から頭よくて、いいとこの法学部からストレートで司法試験に受かってたんだよな。

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