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 境内からちょっと離れたところにささやかな桜の木立があって、春になると花見で賑わうんだが、もちろんこの季節は裸の貧相な姿を晒してるだけなんで、人はあまりいなかった。赤い布のかかった竹のベンチがいくつかあって、俺たちはそこに並んで座り、おみくじを検めることにした。寄進者の名前が印字された行灯がたるんだ電線からぶら下がり、寒風が吹きすさぶたび軽やかに揺れ、鳩が食べ残した豆くずの散らばる地面にまあるい弱光を踊らせる。

「やった! 大吉! 学業は『安心して勉学せよ』って、これ、合格するってことだよね!?」

 ヒトミは金メダリストみてえなY字型の万歳を決めて言った。大げさなんだよ。だから正月のおみくじはほとんど大吉っつってんじゃん。

「俺も、大吉~」

 俺は蛇腹折りの白い紙をひらひらさせながら言った。どうでもいいから中身は読んでない。

「いや、ちゃんと読みなよ。分かってる? 特に恋愛と縁談のところ! ほら、ちゃんと声に出して!」

 ヒトミは俺の手元の紙を覗き込むように、身を乗り出して言った。

 そんなこと言うんだ、ちょっと、いや、けっこう戸惑った。ヒトミが俺の色恋沙汰に口を出したのは初めてだった。だって俺に恋人ができるってことは、下手したらヒトミに母親ができるってことなんだぜ。ヒトミは母親が欲しいとか、要らないとか、そんなことを言ったことは一度もなかった。興味ねえんだと思ってた。そうじゃなかったのか。でもヒトミがこれまで、言いたいことがあったら必ず口に出してきたから、言わないっていうのはそういうことで。混乱する。俺たちは最近、前よりも打ち解けていろいろ話すようになって、今日も正月だからいつもよりあからさまで、だからいつもは言葉にできんかった、本当は言葉にしたかったことを、うっかり口を滑らせちまったのか。

 恋愛の欄には<愛情を捧げよ>と書いてあった。縁談の欄には<他人の言動にまどわされるな>と書いてあった。

「ふーん、どういう意味なのか分かんないね」

 ヒトミは食い入るようにおみくじの紙を見つめて、真剣な口調で言った。俺はおみくじなんかに全然興味が無かったくせ、書いてあるその内容は分かる気がした。俺は叱られてる。そう思った。神さまに、じゃなくて。おみくじの内容なんか、業者が適当に作ったもんで、あいつの言葉である筈なんか全然ねえのに。

「あ、でも、待ち人の欄が良さげなことが書いてあるよ。<音信あり。早く来る>だって!」

 ヒトミの無邪気な言葉がやけに苛ついて、俺はおみくじの紙を、くしゃ、と握りつぶしちまった。待ち人なんて、来る筈ねえだろ。だいたい、今さらあいつに会ったところで。

「あーもう! そんなことしたら願いが叶わなくなるでしょ! ちゃんと木に括り付けないと。ほんとに雑なんだから」

 ヒトミは俺の手からおみくじを奪い取ると、プリーツスカートに覆われたひざの上で丁寧に伸ばし、皺を取った。願い事なんて、別にねえよ。待ち人なんていらねえ。愛情なんてもんがありゃいくらでも捧げてやる。こうしてヒトミと当たり前に年を越しただけで十分だ。こんな日がもうちょっと続けばいいって、強いていや願い事はそんぐらいかもな。

 俺とヒトミは桜の木におみくじを括り付けることにした。俺はその辺の木に適当に括り付けたんだけど、ヒトミは「高いところに括ったほうが神さまに見つけてもらいやすい」って主張して、俺は仕方なくヒトミを肩車してやった。子どもの頃もしたこと無かったのにな。ヒトミはちっちゃな身体のわりに思ったより重くて、大きくなったんだなと思った。ヒトミはおみくじを括った後もなかなか降りようとしなくて、「発進、ミキオロボ!」なんつってクソ冷てえ指で俺の両耳を掴んだまま、あちこちを歩かしてきて大変だった。ひっぱられた耳たぶは痛えし、興奮したヒトミが太ももで首締めやがって苦しいし、周りからはむちゃくちゃ笑われるし。まあ、みんなには父娘みたいに見られてんだろうな。そういうの、すごい違和感あったけど、悪くないかもしれねえ、って思った新年だった。

 ヒトミが絵馬を書くのを待って、境内を後にした。ヒトミはやたら恥ずかしがって、絵馬に何を書いたのか見せてくんなかった。どうせ高校受験の合格を願ったんだろうから、隠さんでもいいのに。高校受験か。合格するといいな。ヒトミからちょっと離れた場所に立ち、ヒトミに背を向けて、境内を幸せそうに歩く人々を眺めながら思った。三年後には、大学受験だ。そんときも、同じようにこの神社に来れるだろうか。三年間がすごく長いように感じられるのは、今が幸せだからと思う。そっか、これが幸せなのか。幸せっつうのは、時間を長く感じさせてくれるもんなんだ。これまでヒトミと過ごした十五年間を同じように振り返ると、何故か鼻水が出てきた。風邪かもしんない。ヒトミに伝染さないよう、気をつけねえとな。もう一ヶ月もすりゃ大事な受験だ。

 境内に通じてる石畳の道は、来た時と違ってたくさんの出店が赤提灯を連ね、ますます賑わってた。どっかから和太鼓だとか笛の音もする。俺はヒトミにわたあめを買ってやった。普段はそんなことしねえから、ヒトミには「変なもんでも食べたんじゃないの?」って嗤われたけど、とりあえず押しつけるようにわたあめを渡した。何だかんだで美味しそうにわたあめを頬張ってくれて、それは良かった。「受験勉強で毎日忙しかったから、今日はいっぱい遊べて楽しかったなあ」って柄にもなく可愛いことを言って、こいつこそ変なもん食ったんじゃねえの、って思ったけど、俺も良い一日だと思ったから、嗤わんかった。そう、良い一日だと思ってた。まさかそんなしょうもないことで、俺たちがこれまでなかったぐらい激しい喧嘩をするとは思ってもみなかったんだ。

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