第5話 佐野工房

 それから三時間後、ワタルは懐かしい空気の中にいた。


 大学に入学してから一度もここには帰って来なかった。実家に帰る事をためらう何かが吉隅よしずみ家にあるわけではない。むしろ、仲のいい家族だと思っている。


 帰らなかった理由は別にない。ただ、なんとなく、だった。それについて家族も何も言わなかった。


 在来線に乗り換えてしばらく行くと、目的の駅に着いた。ここで降りた事はなかったので、勝手がわからず戸惑った。周りを見回しながら歩いていると、タクシー乗り場があったので、乗って行く事にした。


 住所を伝えるとすぐに走り出した。十分ほどで、その工房兼自宅に行き着いた。


 工房を覗くと男性が一人いて、木を削っていた。集中して作業を行なっている様子に声を掛けるのがためらわれたが、思いきって、「あの」と、か細い声で言うと男性がこちらに気が付いてくれた。ワタルは、深々とお辞儀をしてから、


「初めまして。吉隅ワタルと申します。弦楽器工房の佐野さのさんですか?」

「もしかして、和ちゃんのお友達ですか?」


 和ちゃん。和寿かずとしは、親戚の間で和ちゃんと呼ばれているらしいと、この前の電話でもわかっていたが、ここで再認識した。


「はい、そうです。和寿くんの具合はいかがですか?」


 ワタルの問いに、彼は首を振ると、


「なかなか良くならなくてね。薬を飲んで吸入とかもして体休めてるけど、何かダメだね。どうぞ、見舞ってやって下さい。きっと喜びます。たぶん君のことだと思うんですけどね、来た日に嬉しそうに話していましたよ。いいパートナーに出会えたって」


 自分の知らない所で噂されているのは、何だか気恥ずかしい。


 和寿の伯父の後に着いて家の方へ向かう。玄関のドアを開けると、


「和ちゃん。お客さんが見えたぞ。吉隅くん」


 奥の方から咳が聞こえた。ワタルは咳の聞こえた部屋を指差し、「あそこですか?」と訊いた。彼が頷いたのを確認してからお辞儀をし、その部屋に向かった。ノックをして、そっと引き戸を開けた。

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