第50話

 それからの日々、父はすこぶる上機嫌だった。ジェサミンが娘婿になったことを、心から嬉しく思っていることがわかる。


「どうやら期待を裏切らなかったようだな。さすが俺だ!」


 ジェサミンはそう言って、にやりと笑ったものだ。

 彼は普段は絶対に泣き言を言わないが、なぜか父に叱りつけられるのではないかと恐れていたのだ。求めていた『結婚相手としてふさわしい』という承認が取れて、こちらも上機嫌だった。

 そんな中、ロレインはひとりでじりじりしていた。

 父への挨拶が終わったら蜜月を過ごす──そんな期待に胸を膨らませていたのに、何ひとつ想像通りに事が進まなかったからだ。


「マクリーシュを救うために来たんだから、普通の旅行では済まないだろうと思っていたけど……」


 思わずつぶやいて、ロレインは慌てて首を振った。

 ジェサミンは名誉を取り戻してくれただけではなく、マクリーシュの安定のために身を粉にして働いてくれているのだ。その気になれば、いつでも叩き潰すことのできる小国にもかかわらず。


「皇后の故国に手を差し伸べるのは、皇帝として当然の義務だ」


 ジェサミンはマクリーシュの傍系王族や貴族を前に、威厳のこもった声でそう言った。彼自身が君主になることも、大きな見返りを要求することもないと明言したのだ。

 疲弊したマクリーシュに颯爽と登場した救世主を見て、人々は個人的ないさかいをしている場合ではないと襟を正した。

 注目が集まったのは、ジェサミンが新たに選ぶ王位継承者だ。


「俺は本当は『お義父さん』に国王になってもらいたいのだ。公爵というのは、元をたどれば王家から出ている。わざわざ候補者の一覧を見るまでもない」


「私の子はロレインしかおらず、年齢を考えても次の子をもうけることはできないでしょう。そもそも再婚するつもりがありませんしね。私が国王になっても、安定的な王位継承は望めません」


 ジェサミンの言葉に、父は穏やかにそう答えた。表舞台には立たないという断固とした決意が感じられ、父を高く評価していたジェサミンは残念がったものだ。

 そして先々代の国王の孫にあたる十五歳の公爵令息が、新たな王位継承者として選ばれた。

 彼はエライアスのはとこだが、若いながらも国を統率していく能力が備わっている。柔軟性のある性格で、状況を素早く見極めて行動でき、リーダーシップ能力も高いことが評価されたのだ。


「人柄を見込んで決めたとはいえ、新たな王はまだ年若い。マクリーシュに繁栄と平穏をもたらす君主になるには時間がかかるだろう。臨時の措置として、ヴァルブランドから顧問官を派遣する」


 そう言ってジェサミンは、皇の狂戦士ケルグを顧問官に任命した。

 新国王の教育が終わるまではジェサミンがヴァルブランドで指揮を執り、ケルグがマクリーシュで活動することになる。

 ロレインの父は新国王の教育係となった。任命されたとき、父は「万事心得ております」と答えた。新国王をマクリーシュを治めるのに相応しい人物に育て、動乱期を乗り切ることこそが、ジェサミンに感謝を示す唯一の方法だと知っているのだ。


 ロレインは滞在期間中、ジェサミンの上級秘書の役割と、王宮の女主人の役割を同時にこなした。

 いつの日か自分が王妃になるのだと言われて育ったおかげで、ロレインは王宮の習慣に通じている。王妃と王太子妃を同時に失い、取り乱す使用人たちを落ち着かせることは造作もなかった。

 新国王の婚約者は十五歳の公爵令嬢で、とても聡明で真面目な子だ。二人は幼馴染で、互いの欠点を知り尽くしていて──幸いなことに相思相愛であるらしい。彼女なら国王の妻として、あらゆる義務を果たすことができるだろう。

 とはいえ十五歳の少女に、すぐに女主人の務めが呑み込めるはずもなく。ロレインは彼女に、王宮内で物事がどう執り行われているかを教え、後で見返すことができるように山のような資料を作った。

 何百人もの使用人がいる王宮の、指揮命令系統のトップに近い各部署の責任者と、かつての講師の中でも特に信頼できる人に協力してもらい、新しい女主人を教育する体制も作った。

 それでも困ったことがあれば、顧問官ケルグを通じてヴァルブランドまで連絡が来ることになっている。


「マクリーシュを騒がせた大騒動はある程度収束したけど……大変な日々だったなあ」


 滞在期間もいよいよ明日が最終日だ。ジェサミンの仕事が滞りなく進むよう、そして新しい女主人が困らないよう気を配る日々は、本当に忙しすぎた。


「結局、ジェサミンとは親密な関りが持てなかったし……」


 ロレインは小さくため息をついた。ジェサミンは夜が更けても、慌ただしい執務から逃れられずにいる。

 様々な経済援助の取りまとめ、顧問官ケルグとの行動計画の打ち合わせ、新国王への君主として相応しい振る舞いの講釈、すべてに全神経を集中してくれているのだ。


「ジェサミンには感謝しかない。お前とマクリーシュを、どん底から救い出してくれた」


 父が笑いながらワインの入ったグラスを差し出してくる。ロレインはそれを受け取り「ええ」と答えた。


(ジェサミンが私に、先に自室に戻るように言ってくれたのは……お父様との時間を持たせるためなんだろうなあ)


 毎日仕事終わりには三人でお酒を飲んで語り合った。ロレインが一番お酒に弱く、激務のつけも回って一番最初に脱落していたから、父と二人っきりで過ごせた時間はそう多くはない。


「そうそう、お前もよく辛抱してくれたな。ジェサミンと蜜月を過ごすつもりで来たんだろうに」


 父の言葉に、ちょうどワインを飲んでいたロレインは盛大にむせて咳き込んだ。


「え……お、お父様……?」


「私だって、自由にいちゃいちゃさせてやりたかったんだが。父親の心情と言うものは複雑で厄介なものだな。まだまだ、子どものままでいてほしい気持ちもある」


 しみじみとした口ぶりで言われて、ロレインはかつてない恥ずかしさを感じた。


「お前のいない日々は寂しすぎたよ。元気でやっているか、心配でよく眠れなかった。夜くらいは二人っきりにしてやってもよかったが……ジェサミンという男を、両目を大きく見開いて見たくてね」


 父は静かに言い、ワインを口に運んだ。


「彼には圧倒されるな。何から何まで才能に溢れている。できないことなど何もないだろう。一見すると尊大で傲慢、計算高く非情で、徹底した合理主義者のようだが……他人の心の痛みがわかる男だ。部下がみな彼を信頼し、命を預けていることもうなずける」


 ロレインは嬉しくなった。父はジェサミンを見たままに受け取るのではなく、ちゃんと心の奥を見てくれている。


「しかし、ああいう男は大変だぞ。どんなことにも手抜きや妥協をしない。当然、お前にも同じことを期待するだろう」


「私にとってそれは大いなる喜びなの。だからベストを尽くすわ」


「確かにお前なら大丈夫だろう。だがロレイン……いずれは後宮の女主人として、彼を他の女性と共有しなければならないことを、決して忘れてはいけないよ」


 父が悲し気に目を細める。ロレインは胃がきゅっと痛むのを感じた。


「彼には強烈なオーラがあるから、お前と同じ愛を得られる女性はいないかもしれない。だが、後宮というのは政治の駆け引きの延長線上にある場所だ。誰にも引けを取らない富と権力を持ち合わせるジェサミンの後宮に、ずっとお前ひとりということはあり得ないだろう」


「もちろん、ちゃんとわかってる。私さえいれば、あとはお飾りの妃でも構わないわけだから……」


 ロレインはきつく目を閉じて深呼吸をした。

 ジェサミンがロレインのことを心から愛し、何よりも大事にしていることは、すでにヴァルブランド中の人々が知っている。

 しかし皇后の役割のひとつが『後宮を仕切る』ことであるのは、まぎれもない事実。たとえ他の妃が入ってきても、ロレイン個人の希望や感情は二の次にしなければならない。


「皇后としての恩恵を欲しいままにしながら、責任を果たさないなどという恥知らずな真似はしません。政治上の最善の道として新たな妃が入ってきたら、喜んで受け入れるわ」


 そう答えながらも、グラスを握り締める指に力がこもった。それでもロレインは父に微笑して見せた。心配しなくてもいいという気持ちを込めて。本当は、想像するだけでも耐えがたかったけれど。


「そうか。辛くなったり、気持ちを吐き出したくなったら、いつでもマクリーシュに──」


「おいおい! ここは『ジェサミンを誰とも共有したくない』と駄々をこねるべきところだろうっ!」


 いきなりジェサミンの声が聞こえて、ロレインは驚きのあまりグラスを取り落としそうになった。凄みのある顔つきでジェサミンが戸口に立っている。


「俺はロレイン以外の誰とも結婚するつもりはないぞ。他の女たちは、愛のない不毛な結婚生活しか送れんしな。お前さえそばにいてくれるなら、後宮など失っても惜しくはない」


 ジェサミンが近づいてくるのが見えていたが、混乱した頭が正常に戻るまでしばらくかかった。


「ロレイン。お前はまだ、本当の意味で俺の愛の重さを知っているとは言い難いな。ずっと待って、待ち続けて、やっと出会えた女を悲しませるようなことを、俺がすると思うのか?」


 ジェサミンはふんと鼻息を漏らし、両手を腰に当てた。


「長老たちとの交渉が困難を極めているから、まだ言っていなかったが。俺自身は、後宮は廃止するのが望ましいと思っている!」


 ロレインと父はほとんど同時に「後宮廃止」と復唱した。言葉としてはわかるが、理解が追いつかない。


「俺に言わせれば、後宮は無駄が多すぎる。かつては戦争未亡人や遺児を保護する機能があったが、すでに役割を終えた。この俺がオーラを盾に、女の社会進出を進めてきたからな。後宮を廃止するのに、俺ほどうってつけの皇帝はいない!」


 ジェサミンが全身にオーラをみなぎらせて言う。ロレインは大きく目を見張った。父はあんぐりと口を開けっ放しだ。


「いつかの朝『とある案件で、長老どもが説明を求めに来た』って言ってたのは……」


 ロレインは必死で記憶を手繰った。あれはたしか、三つ子と初めて会った日の朝だった。


「おう。後宮廃止に向けて動き出したら、早速文句をつけに来たんだ」


 ジェサミンが顔をしかめて頭を掻く。


「長老の中には、俺が何と言おうと耳を貸さないのもいてな。やはり伝統は重く、簡単に廃止できるものではない。それでも俺は、どんな厚い壁にも立ち向かう」


「ジェサミン……」


「時間はかかるだろうが、俺を信じて待っていろ」


 ロレインはうなずいた。これほど喜ばしい言葉はないと思った。夫となった人が誠実で高潔で情熱的であることに感動し、熱い涙が目尻からこぼれ落ちる。


「お前はずっと宮殿にいるんだ。その方が俺は仕事がやりやすい。いつも側にいて支えてほしいからな」


「え……じゃあ、後宮の改装は……?」


「嘘も方便というやつだ! お前の世界の中心は俺なのだから、後宮に部屋など必要なかろうっ!」


 ジェサミンが声を上げて笑う。ロレインも笑わずにはいられなかった。


「さて、お義父さん。俺たちは明日ヴァルブランドに戻る。今夜ばかりは、特別な配慮が欲しいのだが」


「私に邪魔されずに、ロレインと過ごしたいということですな」


 父がにっこり笑う。

 ジェサミンが「そうだ」とうなずいた。彼のたくましい腕がロレインの体に回される。次の瞬間、ジェサミンはロレインの体を軽々と抱え上げた。


「お義父さん、皇后を国民にお披露目する祝賀行事には絶対に来てくれよ。三日三晩歌い踊る、盛大な祭りだからな」


「はい。それでは邪魔者は退散いたしましょう。私は屋敷に戻りますので、ロレインのことをよろしくお願いいたします」


 愛情と安堵の念が溢れる顔をして、父は一礼した。そして、そっと部屋を出て行く。


「さあ、今夜こそお前を、本当の意味で俺の妻とするぞ。生涯ただひとりの妻にな」


 ジェサミンの全身からまばゆいオーラが放射される。その温かさが、真っすぐにロレインの心に達した。


「ジェサミン……私も、あなた一筋に尽くすと誓うわ」


 当然だ、とジェサミンがにやりと笑う。


「おっと。そういえば、しらふのときにまた言うと約束したことがあったな」


「それって……」


 ジェサミンの腕の中で、ロレインは目をぱちくりとさせた。

 少し前に、眠っているジェサミンの意識の中に響きますようにと願いながら口にした言葉が、ちゃんと届いていたのだろうか?


「少し今さら感はあるが、まあいいだろう。ロレイン、俺はお前に──」


 ジェサミンの金色の瞳が、いっそう輝きを増した。燃えるような光を宿してロレインを見つめてくる。


「惚れた。全力でお前を愛していいか?」


 彼の声が体中に染み渡る。もちろん答えはひとつしか考えられなかった。涙を止めることはできないけれど、ロレインは満面の笑みで答えた。


「もちろん!」





─────────────

最後までお付き合いいただきありがとうございました。読者の皆様のおかげで完結することが出来ました。


そしてお知らせがございます。

皆様の応援のおかげで書籍化とコミカライズのお話を頂戴しています。


詳細が決まりましたら、近況ノートにてお知らせしますね。

これからもロレインとジェサミンをよろしくお願いします。


この作品を読んでくださって、本当に本当にありがとうございました!


参谷しのぶ

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