第16話

「陛下、お夕食はこちらで召し上がりますか?」


 女官長のベラが尋ねる。


「おう。腹が減って死にそうだ、急いで支度してくれ」


「かしこまりました」


 ベラは笑顔で答え、ほどなくしてマイやリンと一緒に食事を運んできた。テーブルに料理の皿がいくつも並ぶ。

 ジェサミンが大きなクッションに座った。ロレインもすっかりお気に入りになったクッションに落ち着いた。

 向かい合わせではなく横に並ぶのはジェサミンの希望で、正妃にだけ許された特権だからでもある。最初は恥ずかしかったが、だんだん慣れてきた。


 香辛料をまぶして焼いた肉や、やはり香辛料の効いたひき肉と野菜入りのパン、ナッツ入りのサラダなど、格式ばらない気軽な夕食だ。この六日間でロレインも何度か晩餐会に出席しているが、そういった場ではずっと手の込んだ料理が出される。


「たくさん食え、ロレイン」


 ジェサミンが料理を取り分けてくれる。彼曰くロレインは『痩せすぎ』であるらしい


「ばあやの神経痛の具合はどうだ?」


「すばらしいお医者様に診て頂きましたし、温泉の効果もあって、生まれ変わったように回復しました。何もかもジェサミン様のおかげです」


 ロレインを幼い頃から守ってくれていたばあやはいま、これまでになく幸せそうだ。


「ずっと神経痛のひどい痛みに悩まされていたので、ヴァルブランドへ同行するのは無理だと思っていたんです。でも他の侍女には任せられないと、ばあやは何度も鎮痛剤を飲んで……」


 馬車での旅を思い出す。ロレインはたくさんのものに興味を引かれたが、ばあやは薬の副作用で寝ていることが多かった。


「本当にありがとうございます。専門医に診せたくても、マクリーシュにはいいお医者様がいなかったんです」


「感謝する必要はない。何しろ正妃の母代わりだからな、敬意を払うのは当然のこと」


 ジェサミンがぶっきらぼうに言う。ロレインは小さく微笑んだ。

 ヴァルブランドに来てからの、ばあやの毎日はのんびりしたものだ。ベラとマイとリンが飛びぬけて有能なので、ようやく休暇を取る気になってくれたのだ。


「ばあやが純粋な休暇を取るのは、すごく久しぶりなんです。彼女が楽しく過ごせているのが、本当に嬉しくて」 


「もっと楽しく過ごせるように、必要なものはなんでも買ってやれ」


 ジェサミンは尊大な雰囲気だし、気に入らないことがあると怒るし、とても短気だ。でも思いがけない優しさの持ち主でもある。

 二人きりでの夕食のときは必ず、その日の執務の内容を差しさわりのない範囲で教えてくれる。ロレインがヴァルブランドという国と国民について、早く、そして正確に理解できるように。

 ジェサミンの話に耳を傾けるだけではなく、意見を求められることもある。活発な議論になることもあった。


「東のファレル王国と、貿易協定をまとめる交渉に入ろうと思う」


「あちらは島国で、周辺の海は世界で最も荒れるとか。そのおかげで侵略の危険から逃れ、鎖国に近い状態ですよね」


「ああ。だが我が国の最新鋭の船ならば問題はない」


「素晴らしいご決断だと思います。ファレルの天然資源の埋蔵量は魅力的です。他国に先んじて協定を結べば、莫大な利益が得られるでしょう。ですが独特な文化と慣習のある国なので、その点を考慮しなければなりません」


「そうだな……非常にプライドの高い民族だ。信頼できる部下を送り込んで、ファレルの慣習に慣れさせるか」


 そう言って、ジェサミンはにやりとした。


「お前の知識量には驚かされるな。聞き上手だし、説得力のある意見も出せる。俺はお前との議論が、すっかり楽しみになっている」


「エライアスには、可愛げがないとうんざりされたのですけれど……」


「阿呆だな。妻が聡明なのは、夫にとって喜ばしいことだ」


 ジェサミンの顔に尊大な笑みが浮かぶ。彼はベラに向かって手を振り、食事の後片づけをするように指示した。


「さあロレイン。ここからは夫婦の時間だ。今日も『練習』をするぞ」


「は、はい」


 ロレインはもじもじした。三人の女官はすぐに出て行ってしまったから、ジェサミンと二人きりだ。


「さあ、来い!」


 ジェサミンが両腕を大きく広げる。


「俺の胸に飛び込んで来い!」


「う……」


 ロレインの胸は息苦しいほど高鳴った。顔が真っ赤になるのがわかる。恥ずかしさのあまり気が変になりそうだ。


「どうした。初日は自分から抱きついてきたではないか」


「あ、あのときは酔っていたから。勇気はもうしぼんじゃってます!」


 つい反論してしまったが、内心では後ろめたさを感じていた。

 正妃になった以上は、果たすべき責任がある。ロレインにのしかかる周囲の期待は重い。世継ぎを産む義務と重圧が、ずっしりと肩にのしかかる立場だ。

 わかってはいても、婚約期間も経ずに結婚というのは未知の領域で──どうしていいかわからずにいる。


 ジェサミンは強大な力を持つ皇帝だ。ロレインが望もうと望むまいと、容赦なく権利を行使することができる。

 だがジェサミンは、そんなそぶりはまったく見せない。


『俺は相手の意に反して、そういうことをする男ではない』


 彼が初日に言ってくれた言葉は本当で、ロレインはまだキスすら経験していないのだ。


「仕方ないな」


 ジェサミンはふんと鼻を鳴らすと、ロレインの肩に手を回して抱き寄せた。

 力強い腕に抱きしめられ、硬い胸に顔を押し当てながら、ロレインはずっとどきどきしていた。彼の温もりに胸が苦しくなる。


「オーラには怯えんくせに。だが断言しよう、すぐに慣れて自分から抱きついてくるようになる!」


「そ、そうでしょうか……」


「そうに決まってる。俺を好きになるのはそう難しいことではないはずだぞ? なぜならば、俺ほど申し分のない男はこの世に二人といないからだ!」


 ジェサミンが自信満々に言った。

 確かに彼は、ロレインがこれまで出会ったどんな男性とも違う。


「すぐだぞ、ロレイン。もうすぐだ。絶対にお前は俺に惚れる」


 耳元で断言されると「そうかもしれない」と思えてしまうのが不思議だった。


(すぐには無理だとしても、祝賀行事の日までには……)


 帝都エバモアの民たちは、皇后がお披露目される祝賀行事を楽しみにしているらしい。結婚披露宴のようなものなので、諸外国からも賓客が招待される。およそ二か月後に盛大に執り行われる予定だ。

 名実ともに超大国の皇后になるのだと思うと、途方もなく怖い。でも、ロレインの世界を一変させたジェサミンがいれば大丈夫な気がした。


「早く俺を好きになれ!」


 ロレインは微笑み、小さく「はい」と答えた。


 そして、それから一週間があっという間に過ぎ──ケルグの帰国の日は、いよいよ明日に迫っていた。

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