第10話
「皆が宴の準備をしている間に、俺たちは多少掘り下げた話をするとしよう」
ジェサミンはそう言って、ロレインを抱き上げたまま大理石の廊下を進んだ。
いくつもの部屋を通り抜けたが、どこも贅を尽くした室内装飾が施されている。王太子妃教育で十年通ったマクリーシュの王宮も、ヴァルブランドの宮殿に比べれば質素に思えてしまうほどだ。
やがてロレインは、居心地のよさそうな部屋に通された。
美術品のような絨毯は、かなり高価なものに違いない。壁一面がすべて窓で、可憐な紫の花でぎっしり埋まった丘が見える。もう一方の壁は天井まである本棚だ。
大きな机の上には、何冊かの本が開いたままになっている。椅子の背もたれに衣服が無造作に引っ掛けられていた。どう見ても、来客用の部屋と言う感じはしない。
「俺の部屋だ。ごく限られた者しか、ここに入ったことはない。ああ、お前たちはもう下がってよいぞ」
開け放された扉の向こうにいるティオンと三人の女官に、ジェサミンがぶっきらぼうに言った。
「え……」
ロレインは顔から血の気が引くのを感じた。そして、身震いした。ジェサミンの金色の瞳がロレインをとらえる。
「なぜ不安がる? 俺と二人きりになっても、何の問題もない」
問題大ありだ。十年間婚約者だったエライアスとも、付添人なしで会ったことがないのだ。
男の兄弟もいないし──母はロレインが幼い頃に亡くなった──ずっと父ひとり子ひとりの生活だったし、未来の王太子妃として厳しく教育されてきたから、普通の令嬢よりずっと男性に不慣れだ。
ロレインが頭を抱えそうになったとき、ジェサミンがきっぱりと言った。
「心配するな。俺は相手の意に反して、そういうことするような男ではない。オーラのことがあるからな、女官を残しても面倒なことになるだけだ」
「は、はい」
ロレインは彼の言葉の意味を理解した。頬が熱くなる。顔は真っ赤になっていることだろう。
「それでは、私どもは近くの部屋に控えておりますので」
ティオンと女官たちが頭を下げる。ゆっくりと扉が閉まった。ジェサミンはロレインを絨毯の上に立たせた。
ジェサミンはああ言ってくれたものの、ついに二人きりだと思うと喉がからからに乾く。
「まあ座れ」
そう言ってジェサミンは絨毯の上のクッションを集め、ロレインの後ろに小さな山を作った。
「座った方が楽だぞ」
「はい……」
緊張のせいで思考力が低下している。ロレインはぎくしゃくとした動きで、クッションの山の前に座った。
ジェサミンは脇にある棚の前に立つと、グラスを手に持って戻ってきた。
「飲め。軽い酒だ」
グラスをロレインの手に持たせ、ジェサミンは真正面に座った。そして豪華な刺繍入りの大きなクッションを引き寄せ、くつろいだ姿勢になった。
恐る恐るひと口飲むと、柑橘類を使った風味の良いお酒だった。蜂蜜と少しの香辛料が入っていて、とても美味しい。
「まずは聞かせて貰おうか。マクリーシュの王太子との婚約破棄について」
ロレインはみぞおちの辺りを鷲掴みにされた気がした。やはりジェサミンは知っているのだ。身上書が取り違えられたわけではなかった。
(お、落ち着いて。こういうときこそしっかりしなければ)
そう思うのに、なぜか打ちのめされたような気分だった。詳しく話せば、絶対に嫌われる。ロレインは体から力が抜けるのを感じた。
「勘違いするなよ。どんな小さな国の王室の問題でも、俺の耳に入らずに済むことはないんだ。阿呆な王太子と野心家の男爵令嬢のことは知っている」
「え、あの……」
息詰まるような思いだったロレインは、思わず目を丸くした。
「お前の話を聞き、お前のことを理解しなければ、慰めることもできん」
ジェサミンがふんと鼻を鳴らす。
「誠意に欠ける人間に裏切られて傷心しておるのだろう。いまだに傷を引きずっていることは、その顔を見ればわかる。さあ、存分に吐き出すのだ!」
ジェサミンが両手を広げる。口調も態度も、絶対服従を求める傲慢な皇帝そのものだ。それなのにロレインは、笑いをこらえるのに途方もない努力を要した。
(強引かと思えば妙に優しくて、なんだかちぐはぐな人……)
ロレインは微笑んだ。緊張が消えているのは、さっき飲んだお酒のせいかもしれない。
「真実はごく単純です。王太子様は私を愛する気が起きなかった。私が堅物で、真面目過ぎ、退屈な女だったからです」
まぶたの裏に八歳の自分の姿が浮かんだ。降ってわいた王命、エライアスとの婚約話に怯えている、小柄な少女の姿が。
「私は筆頭公爵の娘ですが、母を失っている。身近に見本がないぶん、いかようにも教育できるだろうと、国王様と王妃様はお考えになったようです。ちょうどいいことに私とエライアスは同い年。勉強が苦手……あまり得意ではない彼を支えるという使命が、私に課されました」
ロレインはもうひと口お酒を飲んだ。心が軽くなって、体がぽかぽかしてくる。辛い記憶をかき集めるのがさほど苦ではなくなった。
「エライアスが勉強をさぼっても、国王様と王妃様は叱責ひとつしません。彼がどこで何をしようが、悪いことをしたことにはならないのです。その分、私の勉強量が多くなって……すべて自分の務めと心得ておりましたが、もう二度と経験したくない辛い日々でした」
ロレインはまたグラスを傾けた。
「先生方はとても厳しく……私が泣いたり、逆にはしゃいだりすると叱られました。上辺だけでも冷静でいなければなりませんでした」
ロレインはとめどなくしゃべり続けた。アルコールが心地よさをもたらすせいだろうか?
「ずっと感情を抑えつけてきたせいで、思うままに振る舞うことができなくなってしまって。エライアスからは、人形のようで面白みがないと言われました。それでも表面上は婚約者として扱ってくれました。彼がサラに出会うまでは……」
ジェサミンは話に聞き入っている。ロレインはまたお酒を飲んだ。ああ、いい気分だ。
「一年前……私が十七歳になったばかりの頃、王宮で若い貴族を招いたお茶会が開かれて。サラはエライアスの前で派手に転んだんです。彼女はきょとんとした顔をして、次に大笑いし、ぺろりと舌を出しました」
酔っぱらうって、なんて気持ちがいいのかしら。そう思いながら、ロレインは言葉を続けた。
「サラは猫なで声で足をくじいたと言って、自分からエライアスに手を差し出しました。あり得ないほど奔放なふるまいですが、エライアスは彼女の手を取ってお茶会が終わるまで放しませんでした」
サラの勝ち誇ったような顔が脳裏に浮かんだ。ロレインはさらにお酒を飲んだ。
「あの場でエライアスは、婚約者など存在しないかのように振る舞いました。サラは彼をからかい、冗談を言って笑わせました。ときには口をつんととがらせてふくれっ面をして、慌てさせたりもして……」
ロレインはふう、と大きな息を吐いた。
「王太子と男爵令嬢の、ロマンチックな恋物語の始まりです。サラはエライアスを虜にし、私はおよそ一年後にお払い箱になりました。王太子妃教育に夢中になるあまり、エライアスを放っておいた私が悪いのだそうです。彼からは、わずかな謝罪の言葉すらありませんでした」
「ふん。その男は最低だな」
ジェサミンが手を伸ばし、ロレインの肩を掴んだ。
「いまいましい。女の心をずたずたにした上に、己の背信を相手のせいにするとは。腹が立って仕方がないっ!」
ジェサミンが叫んだ。次の瞬間、彼が発する怒りのオーラが部屋中を満たした。
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