第196話・Consequences of Agape

 準々決勝を終え、ホテルに帰る道中、ママは寂しそうだった。


 昨日の朝、あんなに安心した表情をしていたのに、なぜこうも曇るのか。それが、僕には分からなかった。

 ほんの少しだけ、距離を感じる。いつも、あんなに褒めてくれたママから感じる距離。それが、こんなにも苦しいだなんて知らなかった。

 距離を取られることになんて、なれていたはずだ。寂しさという痛みは、とっくに麻痺したつもりだった。だけど、一度知ってしまった快楽を手放すことなどきっとできないのだろう。


 ホテルにたどり着く。昨晩もそうだったのに、二人きりなのがひどく久しぶりに思えた。


「ママ……」


 しっかり話そう、向き合って、すれ違いがあるなら正したい。


「リン君、本当に、ママがいなきゃダメなんだよね?」


 初めて聞いた、ママのこんなにも弱々しい声は。

 だって、ママは僕にとってずっと神様だったのだ。氷獄の底で僕を愛してくれた、悪魔だったのだ。

 次元が違うとすら何度も思った。それでも不相応に恋をしているのだとずっと思っていた。


「うん、そうだよ」


 僕の世界はママがいなければ成り立たない。そう思う気持ちは今でも変わらない。


「そっか、本当に、そうなんだよね?」


 ようやくわかった。ママも人なのだ。

 BGT出場。それは、僕が初めて自分でした、大きな決断だった。ママに相談することもなく、独断で専行したことだった。

 だからなのかもしれない。いや、きっとそうだ。


「日本……帰ろっか?」


 それでもいい。僕はほかの全てを失ってもいい。ママとほかの全ては、天秤にすらかけられない。


「え? え!?」


 ただ、ママはひたすら混乱する。

 ママは、僕と一緒だ。ママも、ママから僕が離れることが不安だったのだと思う。

 不覚にも、それがこの上なく嬉しい。それは、僕が渇望を満たした証左であり、恋の戦争における首級である。


「ママの為なら、なにも惜しくない。だから、僕の全てはママを最優先する」


 材料は全て揃った。あとは、それがママの視点から可視化されればいい。

 本当に、お互いに少しづつ歪んでいる。根本に、どこか人間を不安視しているのだろう。だから、互いに離れないと言う証拠を求めている。鍵を求めている。


「えっと、でも……」


 そうだった、踏ん切りだってつくわけがない。人間の骨格は、人間一人以上を支えるのにふさわしくない。それと同じように、心だって自分のことで手一杯なのだ。

 僕の全てをあずけてしまうのは、少し重すぎた。これは、僕の失敗だ。


「ごめん、ちょっと言いすぎた。じゃあ、約束するのはどうかな?」


 言うなら、この直後をおいて、他にはない。


「約束?」


 そう、今だ。


「婚約……ママがいいならだけど」


 僕は、天性のヘタレのようで、こんなことも正攻法では言えない。いっそ、ママの気持ちが手に取るように解れば良かったのに。


「こ、婚約!? ママと!?」


 血縁がなくて本当に良かった。


「僕はママに恋してるんだ。ずっと前から……。だから、僕じゃ、ダメですか?」


 手が震えているのが分かる。足が笑っているのが分かる。今この一瞬、僕は生涯で最も負けたくない戦場に立っている。


「わからないよ、だってママなんだよ! そう在るって決めたし、それ以外なんてわからない!」


 そうだと思っていた。きっと、ママは長いあいだママとして振舞うことを強いられてしまったんだ。だから、エロスを得る機会がなかった。


「じゃあ、また恋人ごっこしてみない? ごっこでいいよ、日本に帰るまで!」


 本当に怖い。本当に、ごっこのまま終わってしまったらどうしよう。あるいは、ママの決断が、僕と離れたくないからという理由になってしまったらどうしよう。

 ただ、それでも依存的な僕は考えるのだ。ママに拒絶されるのが一番辛いと。


「えっと……。私は、ママだよ?」


 恋人ごっこなんて前もした。だけど、意味が違う。


「ママじゃないよ。僕は養子にだって入ってない」


 膝が抜け落ちそうだった。繋がりを否定して、解いている。好きな人から、離れていっている。

 だけど、そうしないと僕の願いはかなわない。かなったも同然なのに、歪んだままになってしまう。


「違うよ……ママだよ……」


 それは、苦しく悲鳴のように響いた。

 それが苦しい。なんで、好きな人を苦しませなくてはならないのか。それが、自分のエゴが故とわかっている。だから、その苦しみを押し付ける先なんて見つからない。


「僕はもう、ママとは呼ばないよ。満さん、僕はあなたが大好きです。愛してます」


 ママの子、それを引き剥がす。もう子供でいてはいけない。こんな劣情を持った子供などあってはならない。


「やだ……やだよ……。ママの子でいてよ……」


 苦しいよ、そんな声を僕に向けないで。あなたの、笑顔が見たいんだ。あなたの幸せな表情が、僕を幸せにしてくれるんだ。

 満さんが辛いと、僕まで辛くなってくる。


「ごめんなさい。でも、どこにもいかないから。絶対に、離れないから……」


 それに、絶対の証拠を示すことができれば解決するのに。なんで人間の作るものは、人間に破壊できてしまうのだろう。


「お願い……卒業しないで……」


 満さんは傷ついてきたのかもしれない。秋葉家に先に入っていた人たちが、独り立ちしていくたびに、それを見送るたびに。

 初めてみる、満さんの涙でくしゃくしゃの顔。それに耐えられず、僕は満さんを抱きしめた。

 親子、それ以外を満さんは信じられないのかもしれない。


「離れないよ、僕は満さんの恋人だから」


 卒業しないとは言えないのだ。だって、親子は卒業すると決めたのだから。

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