第187話・Causal therapy

 微睡んだ意識の中で、温もりに包まれていた。安心とは、こういうものなのだろう。そう思わずにいられないほど、それが心地よかった。

 意識の覚醒は進み、状況を咀嚼して情報として嚥下していく。


「ん……? ママ……?」


 意識のない、ママの腕の中。それが、僕の今いる場所だった。

 珍しいこともあるもので、今日は僕のほうが起きるのが早かった。

 体表を覆う、黒いスーツに包まれた腕が、僕の上に乗せられている。その、僅かな重みすら、何故か愛おしく……。

 嚥下された情報が、記憶との結合を開始した。昨日の状況、配信のこと……。

 そして、黒いスーツの正体。


「RTS……」


 脳が急激に加熱され、羞恥が水蒸気になって爆発する。

 そのRTSという黒いスーツは、体にぴったりと張り付き、ボディラインを一切隠してはくれない。

 それは、肉体の感触に干渉できる硬度を持ち合わせていない……。

 つまり、今感じている柔らかい感覚はママの肉体の持つそれそのものである。

 それは、おっぱいだったのだ。

 僕は、寝ぼけ眼で、それに頬ずりをしてしまったのだ。子供っぽい、あるいはそれはえっちな行為である。

 息を殺し、心の底で懺悔を繰り返す。だけど、無情にも心音は力強く鳴り響き、それを、それに焦る心がそれをさらに加速させる。

 その帰結だろうか……。ママが、目を覚ましたのは。


「ん……」


 僅かな吐息、覚醒する気配。


「おはよう、リン君」


 そして、慈母のような表情から優しいその声が放たれた。


「お、おはよう! ……ございます」


 罪悪感から、または焦りから、たじたじの言葉しか出てこなかった。


「どうしたの? 赤くなって……」


 考えれば、恥ずかしがるのはもう今更かも知れない。だって、僕はこのRTSを着たママの姿を何度も見ている。

 それでも……。


「当たってるんだもん……」


 ママの腕の中にいるせいで、ママの胸はずっと僕にあたっている。

 恥ずかしい、ドキドキする。きっとこれが性欲だ……。

 そんな浅ましいものを、ママに向けてしまうのは、罪悪感を苛む。


「かわいい……。なんか、出会った時に戻ったみたい」

「え?」


 恥ずかしがっていたのは、出会った時と一緒だ。でも、今は決定的に違う気がする。

 だって、ママに触れようとするこの手を止めるので精一杯だ。

 次の言葉は、ふと心の底に深く突き刺さる。まるで赤熱した鉄の刃を心臓に突き立てられたように。


「わかってるよ。……もう全然違う。泥の中でもがいていたような、あの頃のリン君はもうどこにもいないって」


 何かが擦り切れていく、そんな感覚。必死に手繰り寄せたくなるな、そんな大切な何かが。

 触れようとする手は目的を変えた。だから、僕はそれを戒めることをやめた。

 不安で仕方なくて、縋るようにその服を掴んだ。


「どうしたの?」


 それを訊ねたいのは、僕のほうだ。だけど、なぜそれを訊ねるのか、その動機は曖昧なままだ。


「どこにも行かないで……」


 全然わからない。自分の言葉の意味も、なぜこんなに不安に思っているのかでさえ。


「ママは、どこにもいかないよ」


 その声の響きには、どこか、寥寥りょうりょうたる響きを勝手に感じた。

 何が……そんな疑問が心内を埋め尽くすがごとく、山と積み上げられた。


「絶対……だよ……」


 喉が痺れて詰まって、奥歯が硬くなって、言葉がまっすぐに出てこない。


「うん、絶対。約束……」


 ふと、ママの手が頭に触れた。髪を梳いて、それを流してくれた。

 だから、綻んで緩んだ。


「僕は……ママがいなきゃだめなんだ……」


 決定的にそうだと確信した。僕は情けなくも、ママに依存している。


「安心して。ママはどこにもいかないから……」


 ママの気持ちを思えば、問いたいことは無数にあったのだろう。急に僕が不安を顕にした理由、僕の本当の気持ち。

 問われても困るそれらを、ママは何故かご都合主義が如く避けてくれた。


「本当に?」


 何をもって、僕はその問に満足を得るのだろうか。


「本当」


 言い聞かせるようで、柔らかい声と眼差しと言葉。


「証拠は?」


 その言葉が口から飛び出て、僕はやっと理解する。おててないないを、僕の本心が嫌がらない理由を……。

 それは証拠だったのだ。手に鍵をかけられている間は、自分で何もかもをできない間は、それ自体がママが僕から離れない証拠だった。

 僕は、おかしい。要するに鍵をもって、僕はその問に満足得るのだろう。


「うーん……」


 逡巡して、次の瞬間、ママの唇が僕の唇に触れた。

 心臓が、破裂してしまいそうだ。満たされて、溢れてしまいそうだ。


「これでいい?」


 問われるまでもなく、僕は満足だった。


「うん……」


 ただ、夢を見ているかのように、思考が定まらなかった。

 何が解決したわけでもない。ただ、唇同士を繋げただけ。一つの思い出が、確定しただけだ。


「着替えよっか!」


 いつまでも、RTSだけを来ているままではいられない。今日は、外に出る用事もある。

 仕事を始めよう……。

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