第185話・Darjeeling
ママは紅茶を、音も立てずに嚥下する。その所作が美しくて、本当にどこぞの貴婦人のようだ。
だから、僕も真似をして、音立てずに飲んだ。すると、意外にもこれがやけどをするほど熱くない。だが、その感想は次の瞬間に押し流された。
脳が香りの洪水に晒された。それはまるで花のようでいて、かと思えばフルーツを思わせるみずみずしさがあって、ハーブのような落ち着いた香りすらある。複雑かつ繊細にして芳醇。甘いかと思えば、渋みもあり、また香ばしくもある。それらが小さなカップの中で調和している。
「すごい……美味しい……」
思わず、熱を帯びたため息とともにそれが口をついてでた。
「ね。ママも、こんなの初めて!」
恐ろしい、おいしい紅茶の最上級。淹れる作法を知った人が淹れた、ロイヤルワラント。女王陛下の舌が唸るのも、納得の味だ。
「よろしければこちらもどうぞ」
勧められた、ケーキスタンドは三段。下から、サンドイッチ、丸いパンとビスケットの間の子のような焼き菓子とそしてクロワッサンのようなお菓子が乗っている段があって、最上段は一口サイズのケーキだ。
「食べる時のマナーとかってありますか?」
失敗するのが怖くて、僕は訪ねてみた。
「はい、楽しく食べていただくのがマナーです」
そう言って、ホテルマンの人はニカッと微笑む。
「ふふふ、リン君緊張してる?」
それをママはちょっと微笑ましいような顔で見ていた。
「だって、こんなの初めてだもん! 緊張するよ!」
僕が答えると、ホテルマンの人が言った。
「私たちは、上流階級の方々が満足されるようにサービスしますが、楽しんでいただくのが一番の喜びです。なので、学ぶのが楽しければ先ほどのように質問を。肩肘張るのが苦手なら、気の向くままがいいのですよ」
本当に日本語も流暢で、言っている内容も頷ける。ホスピタリティの権化がここに顕現していた。その顔は、暖かく微笑んでいて、その言葉が本気のものだというのが分かる。
「はい! 僕なりに楽しむことにします!」
その時、それをにっこりと笑ってみているママ。指さした先には、コメントの流れるタブレットがあった。
銀:マナー勉強中のお姫様かな?
里奈@ギャル:緊張しちゃってるのかわいー!
さーや:ちなみに、下段から食べるのが一応のマナーよ。日本人は気づくとそうしてるけど。
初bread:デザートは最後に取っておく気質だしね!
デデデ:しかし、好きに楽しんでもいいんだ? 案外敷居高いわけじゃないんだね?
観光アピールとしての効果はちゃんとあるようで、僕の発言が意図せずそれにつながっていた。高いお店はマナーがあるイメージだが、それを少し払拭できているみたいだ。
それと、マナー勉強中のお姫様というコメントは結構ある。
「どうせ僕は姫ですよ……」
視聴者さんたちは、女の子扱い派の人が多い。僕の敵だ。
「だって、その顔で王子様は無理あるもん……」
そう、ママから見えているのはRTSを着た僕であり、服装は考慮されない。
でも、男性ホルモン治療もかなり続けているのに顔が変化しない。一生このままなのではないかと不安になる。
「むぅ……」
サンドイッチは一口大だ。周囲を汚さないようにと気を遣うこっちのことを考えてだろう。
僕はそれを手に取って、口に放り込む。ヤケクソだ。
「あ、すっごい美味しい!」
きゅうり、マヨ、きゅうり、マヨのミルフィーユが口の中ではじける。マヨは偉大である。きゅうりがこんなにも美味しくいただける。
「あ、ほんとだ」
ママも、口に放り込んではそういった。
僕が思うに、これはママのサンドイッチに少し劣るくらいだ。好きな人補正込のそれだ。きっと、ほかの人にとってはママのサンドイッチより美味しいかも知れない。
サンドイッチは野菜中心だ。どれもこれも美味しくて、とても幸せな気持ちになる。
それを、僕がひとつ、ママがひとつの順番で食べていく。歩調を合わせて食べるほうが、個人的には楽しいと思っている。実はこれが、マナーとして正解らしい。
次は、スコーン。これは、ジャムを乗せて食べるもののようだ。
上下の二つに割開いて、僕は下段にジャムをのせる。
一口では食べきれそうにない。だから二口に分けて、一口目に噛み付いた。
「んー!」
食べたことのない味わい。サクサク、ホロホロ。そんなクッキーのような感触にパンのような感触が混じっている。
それと、一口分だけジャムを塗る理由がわかった。これは、どんなジャムとも相性が良さそうだ。だから、一口ごとに違うジャムを載せてみるのが乙なのかもしれない。
「美味しいね、リン君」
「うん、すっごくだよ!」
スコーンは初めて食べた。またしても最初から最上級を味わってしまった。僕はもう、日本でスコーンを食べられないかもしれない。
一口ごとに違うジャム。果てはメープルシロップなどもかけてみた。全部、圧倒的に美味しかった。笑顔にならずにはいられない。
最後には、ケーキを食べた。これもまた種類が豊富で、とても楽しいひと時だった。
「いいのかなぁ……ちょっと幸せすぎない?」
夢見心地此処に極まれり。
「お仕事なのにね!」
僕はそれを忘れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます