第81話・その身は炎に包まれる

「どこに行くつもり?」


 扉に手をかけたとき、ママの手が扉を押さえた。


 答えられない。言葉と呼べるものなんてほとんど僕には発することができない。


「で―」


 でも、そのかすれた一文字の言葉でママは全てを悟った。


「出て行くつもりなんだ? 声が出ない程度で自分には価値がないって、そんなこと思ってるんでしょ?」


 まるで、それが違うみたいに言う。


 そうであるはずだ。だって、僕は歌姫と呼ばれている。だったら、声こそが、歌うことこそが、その価値であるはずだ。


「お話しよ? 扉から手を離して」


 僕一人の力でママにはどちらにしろ適わなかった。


 でも、それよりも、僕が扉から手を離す理由はスケッチブックを持ちたいからだ。


 声以外に価値なんてないと思ってる僕に、声以外の価値を見出してくれるママの話を聞きたい。だから僕は、自分の意思で手を話した。


「ありがとう。すぐ、スケッチブック持ってくるね」


 そう言って、ママは少し離れた。スケッチブックはテーブルの上に、キャッシュカードと一緒だ。


 今、逃げ出そうと思えば逃げ出せる。だけど、無性に怖くなった。自分が死ぬかも知れないことじゃない。ママが悲しむことが。


 だからだろう、僕の手は扉に伸びることがなかった。自分が死ぬことなんて、所詮自分事だ。自分ひとりで完結できる。でも、ママが悲しむのはそうじゃない。他人事、自分以外の人に影響を与えてしまうのだ。


 数秒の後、ママはスケッチブックを持って帰ってきた。


「はい」


 それを、僕に手渡して、玄関前の廊下で二人で膝を突き合わせて座った。


 座ってくれるって、本能的なことかもしれないけど安心する。多分、小さくなるからだ。動物はきっと、大きなものを恐れるようにできてるんだ。


 ちゃんと話をしなきゃ……。


『なんで引き止めたの? 声の出ない僕に、何の価値があるの?』


 それが、僕が出ていく理由だ。価値がない、ママに何の利益ももたらせない。


「前提が間違えてるよ。価値なんていらない。ママは凛くんのママだって、そう決めた瞬間から価値なんていらないの。でも、凛くんの価値が声だけだなんて思って欲しくないから、ちゃんと言うね」


 ママは一度言葉をとめて、僕の目をまっすぐ見た。考えている、そんな素振りなんてどこにもなかった。


「楽器が上手で、調律だってできる。見た目が可愛くて、モデルだってできる。すごく優しい子、いてくれるだけで心が癒される。頑張り屋さんで、ママの勇者。なんでも挑戦して、すぐできるようになっちゃう。仕草が可愛い、お手伝いしてくれるのが可愛い。まだまだいくらでもあるよ。朝までかかるけど、まだ聞く?」


 価値なんていらない、その言葉に驚かされて、ついで挙げられた自分の価値にさらに驚いた。だけど、それは嬉しかった。もう、出ていこうだなんて思えなくなるほど。朝までかかるだなんて、ママは一体僕にどれほどの価値を見つけてくれてるんだろう。


 そもそもそうだ。最初は何の価値も持たないまま、拾われてここに来た。VTuberとしての可能性をママは感じていたみたいだけど、僕にそれを無理やりさせようとしなかった。


 あぁ、価値なんていらなかったんだ。価値なんてなくても、ママはママなんだ。本当に、ずるいな。


『僕はまだ、秋葉家でいていいの?』


 言われなくても、答えなんてとっくにもらってる。


「当たり前」


 だけど、その言葉を直接貰うまで、僕はそれを信じられなかった。


『いっぱい、甘えるかも知れないよ?』


 その答えも、とっくの昔にもらっていた。


「秋葉家家訓その一だよ」


 ママには甘えること、遠慮は許されない。そう、甘えていいんだ。甘えなきゃダメなんだ。だって、僕は秋葉家でいることを許してもらった。


 僕にとってじゃない。これは、本当の無償の愛だ。


 他人のはずなのに、拾われたあの日から他人じゃないんだ。


『ごめんなさい』


 出ていこうとなんてして、ごめんなさい。もう逃げない。もう、どこへも行かない。


 気づいたんだ。家族がいなくなるなんて、悲しいことだ。僕は、その悲しいことをしようとしてしまっていた。


 ふと、ママが僕を抱きしめた。


「もう絶対出ていこうとしないでね!? ママ、心臓止まりそうだったんだから!」


 これじゃあ、あべこべだ。ママが泣いている。


 出ていこうとしただけで、僕はもう傷つけてしまったんだ。


 ごめんなさい。ママ、ごめんなさい。


 抱き返したとき、僕は自分の涙に気づいた。涙が伝う頬は、それでもなぜか暖かかった。


 ママはまるで篝火のように暖かい人だ。


 ママはまるで女神のようだ。無限にだって思える愛で、僕までも包んでくれた。


 僕は、ママがやっぱり大好きだ。

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