第2話・記憶の彼方

 満さんの家は、富裕層向けのマンションだった。綺麗なフローリングの床と、システムキッチンのある広いリビングに僕は驚いてしまった。


 僕の家に比べると雲泥の差だ。あそこは、結構雑多だかったから……。


 家に入ると、僕はまず食卓の椅子に座らされる。それまで、下ろしてもらえなかった。だけど、足が汚れているから仕方がない。


「ちょっとまってね。今、足拭いてあげる」


「ごめんなさい。ありがとう、ございます」


 僕は情けなくて、ただそう言うしかなかった。


「いいの、もっと甘えていいんだよ。私、ママだから!」


 ママになってもいいと言ってまだ一時間も経ってないと思う。だけど、満さんはもう、僕のママのつもりでいてくれているようだ。


 どんなひどいことをされてもいいや。おかげで僕は、明日冷たくなっていることはないんだから。


 満さんは、どこかへ行ってすぐにタオルをもって帰ってきた。


「はーい、ママにあんよむけて」


 完全に子供扱い、それはちょっと恥ずかしい。


「自分で……」


「だーめ! ママに任せてね!」


 言葉を遮られて、僕はもう何も言えなかった。


「はい……」


 おとなしく足を向けると、満さんは僕の足を拭いてくれる。それが、少しくすぐったかった。


「今更ですけど、家に上げてよかったんですか?」


 足を拭かれながら僕は尋ねる。僕は男だし、満さんは女性だ。綺麗な人だし、襲われる危険だってあるだろう。


「はい、終わり! 凛くん、ママと腕相撲しよっか?」


 そう言って、満さんは少し移動してテーブルに肘をついた。


「わかりました……」


 僕は、満さんの手を握る。


「力入れていいよ」


「じゃあ……」


 ゆっくりと力を込めていく。だけど、満さんの手は微動だにしない。


 気が付くと、僕は全力で。だけど、満さんは顔色ひとつ変えていなかった。なのに動かない。


「ほら、大丈夫。負けて複雑かもだけど、ママ結構力あるんだよ。だから、襲ってきても返り討ち!」


 そう言って、満さんは微笑んだ。


 違う、満さんが力持ちなんじゃなくて、僕が非力なだけだ。


 それを、僕を気遣って、言い換えてくれたんだろう。すごく、優しい人だ。


「ありがとうございます」


「ん? 何が?」


 満さんは不思議な顔をする。


 何をされてもいい、という気持ちはどこかに消えてしまった。ひどいことなんて、きっとされないって、馬鹿な僕にもわかる。


「そんなことより、ご飯にしよっか。シチュー好き? オムライス? あ、男の子だからハンバーグとか?」


 まくし立てるように、優しい言葉が飛んでくる。それだけで、僕はうれしくて涙が出そうになった。


 でも……。


「オムライスってなんですか?」


 それだけはわからなかった。


「え? なんで……知らないの?」


 満さんは、すごく怖い顔になった。


「僕、長男で、結婚したばかりの頃に生まれたんです。小さい頃、お母さんは料理上手じゃなかったので……」


 それから、ある程度年を取ると、僕は自室を与えられ、そこから出ないように言われた。学校と、自室の往復。それが僕の青春だ。


 その時に出される食事は、いつも簡素なものやレトルトで、人間として最低限ではあったと思う。


「今日は、オムライスにしましょう」


 不意に、満さんに抱きしめられた。優しくて、柔らかい包容だった。


「わ、わかりました」


 だけど、僕はそれがすごく恥ずかしくなった。女の人に抱きしめられるなんて、とてもエッチだ。


「じゃあ、作ってくるけど、時間潰すのに何が欲しいかな?」


「あ、えっと……わかりません」


 時間を潰すだなんて考えたことがなかった。みっちーママの配信が見たいけど、今はその時間じゃない。


「そっか、じゃあどうせだから手伝ってみる? 全部ママが教えてあげるから」


 手伝うなんてやったことはないから不安だ。だけど、この人なら失敗しても許してくれるような気がした。


「はい!」


 僕が言うと、満さんは僕の手を優しく握った。


「おいで、いっしょにやろ?」


 そう言って笑うから、僕は立ち上がって、満さんについていった。


 台所はやっぱり広い。それに、片付いている。シンクがキラキラ光って、綺麗だった。


 満さんは、冷蔵庫をあけて中を物色する。


「えーっと、はい玉ねぎ。むきむきできるかな?」


 本当に、小さな頃の記憶が蘇る。ずっと昔に、こうやって手伝わせてもらったことがあるような気がした。


「で、やります……」


 でも、できると言うのが怖かった。なにせ、ずっと昔の記憶だ。確か、茶色い皮だけを剥けばよかったんだと思う。


「うん、やってみよう!」


 そう言って、満さんはガッツポーズして僕に見せた。


 僕が、玉ねぎを剥き始めると、満さんは鶏肉を取り出してまな板の上に乗せる。それを、包丁で小さく切っていく。


「上手上手!」


 僕が玉ねぎを剥くのを褒めながら。


 こんなことで褒められるのは少し恥ずかしい。だって、玉ねぎを剥くのは思っていたよりずっと簡単だ。こんなの、きっと誰だって出来る。


「できました」


 僕は玉ねぎを剥くと、満さんはキッチンの引き出しからみじん切り器を取り出した。


「今度はこれに入れて、紐を引っ張る! やってみよー!」


 僕は言われた通りにする。


 満さんは、僕に刃物を使わない簡単な手伝いばかりを頼んでくれた。


 そして、手伝いが全部終わると抱きしめて褒めてくれた。


 それだけで、僕は幸せでいっぱいだった。

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