迷いの森の家
花見川港
序章
迷子の兄妹
薄暗い森の中を幼い兄妹が歩いていた。
燻んだブロンドに痩せ細った体。肩幅がきつそうな服は裾や袖がすり減り、穴だらけでボロボロ。痩けた頬に、深くなったくぼみの中で爛々とした瞳。
頭上でフクロウが鳴く。
一度入ったら出られないという迷いの森。多くの子どもが、老人が、旅人が、森に喰われた。
幼い妹と違い、少年は親が自分たちをこの森に連れてきた意味を理解していた。別段珍しいことでもない。
幼い兄妹が生き残れる可能性はとても低い。それでも親の思い通りになってたまるかと、少年は意地で体力を補い妹の手を引いていた。
聞こえてきた川のせせらぎに喉が鳴る。剥がれかけている薄い靴底でたくさんの小石を踏んで、兄妹は川に飛び込む勢いで顔を突き出し、両手で掬った水を飲んだ。張り付いたような喉の違和感がスッと抜ける。
川上の方から何か赤い物が流れてきた。少年は手を伸ばしてそれを取る。半球のスープ皿に似ているけれど、それにしては小さい。妹が使うにはちょうど良さそうではある。こんな艶のある食器を見るのは初めてだ。山の中を流れて来たにしては傷ひとつないそれを掲げて月明かりに照らす。
「おにいちゃん?」
「川を辿ってみよう。誰かいるのかもしれない」
少年は食器のようなそれを右手に、左手は妹の右手と繋いで川を遡る。
遠くで狼の遠吠えが聞こえたけれど、幸いにも二人は獣に襲われることはなかった。
長い坂道を登った先に、その黒々とした巨体は現れた。
兄妹は恐る恐るとそれを見上げる。
屋根も壁も太い木の柱も扉も全て真っ黒で巨大な門。鬱蒼とした森の中に佇むそれは見たこともない造りで、まるで客人を歓迎するように開き放たれていて異様だった。
「おにいちゃん……」
少年は不安気な妹の手を強く握り直して、意を決して門をくぐった。
兄妹の家より大きな二つの小屋にはそれぞれ、色んな毛色の馬と牛がいた。別の小屋には鶏たちがいて、他にもいくつかの建物を除いたけれど人の姿はない。
一番大きな屋根を目印に奥へ向かう。
建物の入り口も開放されており、少年は慎重に足を進めながら中を見回す。地面より少し高くなっている板床に上がった。廊下に兄妹の足跡が付けられていく。
紙を貼り付けた薄い戸を横に滑らせて開けると、紅白の花が咲き誇る大きな庭が広がっていた。月明かりに照らされ、穏やかな風が吹く。
少年の腹がくぅと切な気に鳴いた。妹の腹からも同じような音が。すると計ったようにどこからか香ばしい匂いが漂ってくる。少年は鼻をひくつかせて匂いを辿った。
草のような優しい香りがしてほんの少し弾力のある床。広い部屋の中には黒い小さなテーブルのような物が長方形を描くようにずらりと並び、その一つ一つに五種類の皿が乗っていた。少年が拾ったのと同じような物もある。
皿に盛られた料理から湯気が立ち、食欲を唆る。警戒しながら近づき、ごくりと唾を飲む。端にあったところから、焼き魚の身を指で摘まむ。
口に含んだ瞬間に広がるほどよい塩味。
「美味い! お前も食べろ」
「うん!」
久しぶりの食事を兄妹は貪り食った。一つのテーブルを空にすると次のテーブルに手を伸ばし、とにかく腹に入るだけ口に詰め込んだ。
満たされるまで食べ尽くした二人は、中で火を燃やす壺の傍で身を寄せあった。
気が緩んだのか、妹は目を輝かせて室内を見回す。壁際の棚の上に左前足を挙げて座る猫の置物を見つけて、取ろうとしたが手が届かない。
「おにいちゃぁん」
「ったく、しょうがないな」
代わりに猫の置物を取って、泣きついた妹に渡す。柔らかくもない焼き物の人形を妹はニコニコと嬉しそうに両腕で抱える。こんな風に生き生きとした表情を見るのは久しぶりだった。
「壊すなよ」
「うん!」
他にも部屋の中には見たこともない物がたくさんあったが、妹はそれがとても気に入ったようで他には目を向けなかった。
小さいテーブルと対のように置かれていた平たい四角のクッションを部屋の隅にかき集め、少年は妹を抱きしめるようにその上で横になった。妹が目を閉じて、静かに寝息を立て始めたのを確認してから少年も目を閉じる。
あっという間だったかもしれないし、熟睡できるほど長い時間が過ぎていたのかもしれない。
カチャリ、と音を耳にして夢に引きずられることなく目覚めた少年は、目にした光景に口を開ける。
「は……?」
滑らかで細い灰色の体。五本指の四足で壁に張り付き、瞳孔が縦長の大きな瞳がこちらを凝視している。床の上にいるモノは、二足歩行に適しているとは思えないにも関わらず後ろの二本足で立ち、長い尾を引きずっている。前足で兄妹が空にした小さいテーブルを何段か重ねて持ち上げていた。まるで人間のように前の開いた上着を着ていて、人間の大人ほどある巨大なトカゲ。
「っ、起きろ!」
「ふぇ……おにいちゃん?」
「逃げるぞ!」
手を伸ばしてきたトカゲに向かって川で拾った食器を投げつけ、少年は妹の手を引っ張って走り出した。
起きたばかりでまだ事情も理解できていないけれど、兄が恐ろし気な顔で必死に逃げるので妹も、ほとんど兄の力で浮いている足を必死に動かした。
黒い門を抜け、川辺を下り、木々の間を抜けた先で遠慮なく降り注ぐ陽の光に眩み、兄妹たちは立ち止まった。
「おっと、お前さんたちどうした?」
通りかかった一台の馬車から老夫が声をかける。
「助けて! 魔物が!」
「なんじゃと? まさかお前さんら、迷いの森を出て来たのか」
目の前に広がる鬱蒼とした森。今のにも木々の間から、あの魔物たちが腕を伸ばして現れそうで少年は身震いした。
老夫は静かな森を見つめながら、顎の下に蓄えた豊かな髭を撫でる。
「ふむ。ひとまず乗りなさい。村まで連れっててやろう」
こうして、一度入ったら出られないと云われる迷いの森から抜け出した兄妹は心優しき商人に出会い、彼の養子となった。
兄妹を拾った商人はその日から商売が上手く行き始め、大きな店を持てるほどにまでなり、兄妹を「幸福の小鳥たち」と呼んで可愛がった。
店のカウンターには、妹が大切にしている猫の置物が、客を誘うように手招いているという。
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