第21話 大好きな幼馴染

 ――今になって思えば、今朝からずっとわたしはどうかしていたんだ。


 愛佳に連れられて、屋敷の中を歩く。鮮やかな赤の絨毯、開港時代に渡来したであろう年代物の家具、白百合家のご先祖様を描いたという肖像画――そんな内装の全てが、渡来してからも百年以上に渡って続く白百合家の血筋と、その伝統の中で丁重に育まれた愛佳の美しさを物語っていた。


「やっぱり愛佳の家はすごいなぁ」


 愛佳の部屋に通された後、震えを押し殺しながらなんてことのない感想を述べる。使用人さんも邪魔できない、ふたりだけの秘密の時間――胸の奥でふつふつと湧き上がる欲望を抑え込む。


「りっちゃんは相変わらずこのお屋敷が好きなんだね」


 愛佳にとっては見慣れた日常の風景。それは莉都が遠い昔にテレビの向こうに見出した憧れそのもの。俗世の汚れから程遠い世界が在って、そこで愛佳のような子が暮らしている。その事実だけで、私は――


「だって本当にすごいよ。天蓋つきのベッドはお姫さまみたいだし、アンティークのひとつひとつがとっても上品で――」


 ――そこまで語って、不意に限界が訪れた。


「どうしたの?」


 振り向いて不思議そうにこちらを見つめる愛佳。きょとんと首を傾げる姿の、なんて愛らしいことだろう。莉都は自然と彼女に引き寄せられて、そして我慢できずに両腕で彼女を抱きしめた。


「だ、だいじょぶ?」


 困惑する愛佳――そうだよね、急にこんなことされて、訳がわからないよね。でも愛佳が悪いんだよ。あなたが当然のように私へ抱きついて、自分がこの世に生きているという現実を、自らの身体を以て私に教えたせいなんだから。


 朝起きたときからずっと、頭の奥底に不安が渦巻いていた。当たり前のように続いていく日常。見上げた空は晴れやかでも、母親や部活のことを考えているときの心はどんよりと曇っていた。重い家庭環境を背負っているわけじゃない。部活や学校で虐められているわけでもない。悲しいとか、辛いとか、不幸で仕方がないとか――そういうのじゃなくて、ただこのどんよりとした曇り空が、これから先も晴れないまま永遠に続くような気がして、それがどうしようもなく息苦しかっただけ。


 今日まで愛佳に抱きしめられてきた仕返しとばかりに、ぎゅっと力強く愛佳を抱きしめる。華奢な彼女の身体は、力を込めすぎると手折れてしまいそうで、なのに愛佳を求める衝動は止まってくれない。


 現実は苦々しく、重々しく、暗澹としている。その現実が幾つも積み重なって過去を織り成し、いつかの未来を形作る。その未来を想うだけで絶望が心を覆ってしまいそうだった。あの家でいつまでもお母さんと暮らす? あの部活を卒業まで続ける? 嫌なら全部やめればいい。けど私はお母さんを見捨てられるだろうか? そもそもそんなにお母さんのことが嫌いだろうか? ううん、お母さんのことは好き。だけどあの毎日は退屈でつまらなくて仕方ない。部活にしても、辞めた後どうすればいいんだろう? 私の学校は部活動が校則で必須。辞めてから色々な部活を転々とするよりも、軟式テニス部を適当にサボりながら続けたほうが結果的にはラクじゃない? だめ、だめ、だめだめだめ。こんな停滞をいつまでもいつまでも続けていたら、きっと頭がおかしくなる。


 そんな毎日でも、私が生きる世界のどこかで、あなたは美しく生きている。このお人形さんが暮らすようなお屋敷で、お人形さんのようにあなたは佇んでいる。その真実を知っているだけで、私はどうしようもなく救われる。私が現実という曇り空に押し潰されているその彼方に、あなたという光は燦然と輝いている。


「愛佳は、私のこと好き?」

「へ?」


 たったひとつ、確かめたいことがあった。


「それはもちろん――」

「私は大好き。愛佳のことがこの世の誰よりも大切だし、世界でたったひとりの親友だと思ってる。愛佳も私が一番の親友だよね?」


 私がいつまでもあなたを見つめているように、あなたもどうか、私というひとりの存在がこの世界に在ることを、一番近くで見つめていてほしい。あなたが私を求めてくれるだけで、私はあなたが求める私でいたいと思える。重苦しい現実の中で、背筋をしゃんと伸ばしてまっすぐに前を見つめていられる。


「わたしもそうだよ。だから心配しないで」


 その一言だけで、朝方から張り詰めていた心の糸がゆったりとたわんでくれた。もう大丈夫――莉都は愛佳から身体を離す。


「ごめんね。ちょっと疲れてたみたい」


 今更になって恥ずかしさが込み上げてきて、人差し指で頬を掻く。


「さて、それでは早速セットアップに取り掛かりますか」


 弱い自分を晒すのは、もう終わり。本当はこんなところ見せたくなかった。今からはキチンと頼れる幼馴染を演じなくちゃ――そうやって自らに役割を課すことで、ともすれば簡単に揺らいでしまう弱い自己を固定する。それは母親としての役割を自らに課す母とよく似ていて、それがちょっぴり嫌だな――なんて心の奥底に小さな棘が残った。

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