第23話 ジャスミンの正体

 愛佳とふたりで過ごす時間はただただ幸福で――そのぶん、夢から覚めたときの痛みもより鋭くなってしまう。


「莉都〜! あんた遅かったじゃない。どこ行ってたの?」


 帰宅すると、さっそく母のやかましい声が耳に飛び込んできた。


 母の声は、あまり好きじゃない。その甲高い声色は、何気ない言葉でも叱られているような心地になってしまう。


「今日の晩御飯はお刺身だからね〜。部屋に籠もってゲームしてないで、呼んだらさっさとリビングに来なさいよ」


 母はいつも一言余計なのだ。生ものだから悪くならないように食べる時間をなるべく合わせたいという意図は理解できるけれど、部屋に籠もるなとかゲームしてるなとか、自分の行動に制限を言いつけられるとどうにも良い気分になれない。


 家族へ素直になれない莉都の我儘に過ぎないことは、莉都自身わかっている。それでも愛佳の屋敷で夢のような時間を過ごした後にこのような現実を突きつけられると、あまりの落差に思わず溜息が出てしまった。


「部活が長引いたから遅くなったの」


 何も言わないと訝しまれそうだったので、夕食の時間にそれらしい嘘を言っておいた。


「案外真面目にやってるのね」


 だから一言余計なんだってば――喉元まで出かかった文句をごくりと飲み込む。


「やるって決めたならサボらずにキチンと通いなさいね」


 やりたくてやっているわけじゃなくて、入部が校則で強制だから仕方なくやってるだけなんだけどね。


「その話なんだけどさ――」

「何?」

「――なんでもない」


 部活を辞めたい――なんて母親に相談することじゃない気がした。別に辞めたければ好きに辞めればいいのだ。どうせ母に相談しても「辞めてから、どうするの?」と言われるだけだろう。母は莉都の悩みを真摯に受け止めてくれることはないし、莉都の想像の外にある提案をしてくれることもない――それは莉都が十五年以上の時間を母と過ごして下した結論だった。


 問題は、学校が入部を強制している以上、辞めた部活の代わりに新しい部活を見つけなければいけないことだった。その問いに答えはなく、だから莉都は辞めたい軟式テニス部を辞めるに辞められず、どこかしっくりと来ないぎこちない日常をこれからも送り続ける。


 夢から覚めれば外は快晴だなんて都合の良いことはなく、現実は今も暗澹としており、今日も退屈ばかりが莉都の心を蝕んでいた――


     *


 ただぼんやりと過ぎていく時間。しかしそれは莉都にとって何よりも恐怖だった。


 小さい頃は、目の前にあった何もかもが新鮮で、眩しく輝いていたように思える。あの日から変わっていないはずの世界が歳を重ねる毎に色褪せていくように感じているのは、きっと莉都自身がかつて持っていた豊かな感受性が色褪せているからなのだろう。


 かつてあんなにも憧れたスーパーヒロインの番組を観なくなったのは、いつの頃からだろう。苦手だった友達作りをすっぱりと諦めて、休み時間を独りで過ごすようになったのは、いつの頃からだろう。何かを諦めた代わりに何か新しいものを掴めばいい――その言い訳は次第に通じなくなっていった。少しずつ消え失せていく世界への興味。世界の色々なものが当たり前になって、そうやって価値を喪失していく。


 このままゆっくりと眩しいものが零れ落ちて、そして最後には何もなくなってしまう――そんな恐怖から莉都が逃れるための手段が、ディープスペースだった。


 夕食とお風呂が済んだら、そそくさと自室に引き籠もり、コンピュータのスリープ状態を解除する。インターフェースを装着すれば、そこはもう退屈な現実から切り離された虚構の世界だ。


 まずはフォローしている有名人のSNS更新を確認。それから暇潰しにくだらない動画を観てくすくす笑ったり、炎上している話題のニュースなどを読んで一時いっときの義憤に駆られたり――深層電脳空間ディープ・サイバー・スペースには退屈の恐怖を掻き消すための情報が溢れかえっている。


 今の時代はプログラミング教育が大事だから――という理由で当時中学校にも進学していなかった莉都にディープスペース用のコンピュータを買い与えてくれた両親には感謝するしかない。今でこそ母は「五感をハッキングしてゲームするだなんて健康に悪い」と苦言を呈しているものの、お陰で莉都は今こうして現実に押し潰されずにかろうじて自らを保っていられる。ただしディープスペースという現実への痛み止めについて、莉都は幼い頃から服用している分とっくに耐性がついてしまっており、そんな中でさらに効き目の強い痛み止めとして服用し始めたのが『ファンタスティック・ヒロイン・シューターズ』――通称FHSだった。


 興味を持ったきっかけは、莉都が憧れていた素敵なファンタジーがゲーム内に描かれていたことだった。まるで自宅にいながら愛佳と一緒の時間を過ごしているような心地――もちろんそれが錯覚だということにはすぐに気づいた。これはあくまでバトルロイヤル・ゲームであり、そこで描かれるメルヘンチックな景色や綺羅びやかなドレスはあくまで背景世界を飾り立てるためのものに過ぎない。それでも瞬間の判断力と精密な操作が問われ、試行錯誤を繰り返しながら勝利の方程式を探っていくその過程は、莉都にとって途方もなく魅力的だった。


 莉都は来る日も来る日もFHSにのめり込み、熟練の果てにプレムアム・ランカーの証たるプレミアムレアドレスを手に入れ――そしてそのとき、自らが断崖に立っていることに気づく。こうやってFHSをやり込んだ先に、一体何があるというのか――痛み止めが次第に効力を失っていく。夢見た世界が色褪せて、その先の現実が見えてしまう。


 いや、まだだ。プレミアム・ランカーは上位プレイヤーとしてのスタートラインに過ぎない。飽きてしまうにはまだ早い。このゲームの楽しみ方は他にも沢山あるはず。私はそれを見つけ出さなくちゃいけない。ここで色褪せた世界に見切りをつけてしまったら、きっと他のゲームでもやり込んでは飽きての繰り返しになってしまう。痛み止めは退屈という症状そのものを治してはくれない。覚めない夢が必要だ――現実に追いつかれないような、確固たる虚構が。


 そうやって莉都は手にしたワンドで敵プレイヤーを打ち倒し続けた。迫りくる現実という未来から目を逸らすため、刹那という虚構に没頭する。


 嗚呼――だけど最近、そんな逃避にちょっとした変化が起きた。


『わたし、このゲームに参加します。戦って、生き残って――そして一秒でも長く、この外の世界を歩いてみせます』


 莉都が出会ったのは、おとぎ話の世界に住まうお姫さまみたいな女の子――胸の奥に芽生えた退屈を吹き飛ばす希望は、まだほんの小さく、吹けば消えてしまうような儚さで、それでもこの虚構の世界に確かな現実として在った。


『私があなたを勝たせる。あなたが見たことのない景色を、私が見せる。そしてこの世界で最も価値のある景色は――最後の一チームまで生き残った先にある勝利以外に在りはしないから』


 そんな言葉が出てきたのは、きっと彼女が莉都の焦がれるあの子に似ていたから。どうせあなたも現実には敵わない。いつか必ず退屈や絶望に心を折られる。それでも彼女を見捨ててしまうことは、莉都が大好きなあの子を裏切ってしまうような気がしてしまった。


『それじゃあ、明日の夜九時に』


 昨晩の約束通り、莉都はFHSのログイン画面に遷移する。


 きらびやかな光が莉都の身体を包んだ。乾かしたばかりの黒髪はアニメキャラクターのような水色に、身に纏うパジャマはプレミアムレアドレスに。ドレスのデザインは青を基調としたパンツルック。脚のラインにぴったりと合う白のスキニーを、光を反射して七色に輝く青のドレスが彩る。その様はまるで、白い砂浜に打ち寄せる透き通った海水の碧が陽射しを浴びて瞬いているかのよう――故にそのドレスの名は、スペクトルアズール。


 スーパーヒロインへの変身を終えた莉都の前に、自らのプレイヤー名が表示される。


 プレイヤー名――ジャスミン。それが莉都がFHSにて自らのアバターに付けた名前だった。

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