第17話 to the next いつもと少しだけ違う朝

 とても楽しい夢を見ていた気がする。


 それは、遥かな空を鳥のように飛ぶ夢。

 可愛らしいドレスを着て、お城を優雅に歩く夢。

 魔法の杖を手に持って、迫りくる敵に立ち向かう夢。

 そして――海の碧を纏った、王子様のような少女と出会う夢。


 どうせ叶わない――そう思い込んで心の奥底に仕舞い込んでいた憧れを、王子様は優しく掬い上げて、そして愛佳を彼方の空へと導いてくれた。


 彼女の凛々しい顔立ちが、どうしても脳裏から離れてくれない。


 嗚呼、そうだ。きっとわたしはあの人のことが――



     *



 目を覚ますと、視線の先にはいつものようにベッドの天蓋が広がっていた。


 身体を起こして、むにゃむにゃ――と目頭をこする。ベッドから見渡す広々とした寝室の風景。赤い絨毯の上に置かれた、年季の入った洋風の丁度たち。祖母から「白百合家の令嬢に相応しく」と与えられたこの部屋は、莉都によると「まるでお人形さんの家みたい」なのだという。


 夢――だったんだ。


 愛佳は微かな寂しさと共にベッドから身体を起こす。いつの間にか窓が開け放たれ、そよ風にカーテンが揺れていた。開けっ放しのまま寝ちゃったんだっけ――寝ぼけ眼のまま柱時計を見て、愛佳はその針が普段の起床時刻を大幅に過ぎていることに気づく。


「ね、寝坊した〜っ!」


 慌てて飛び起きる愛佳。どうしよう、今日は午前からりっちゃんが来るのに――!


「おはようございます」


 そう挨拶したのは、いつの間にかベッドの傍に待機していた使用人の怜だった。どうやら起床時刻を過ぎても眠っていた愛佳をずっと見守っていたらしい。ぐっすり眠っているのを起こすのは忍びないし、かといって寝坊を見過ごすわけにもいかないし――といったところだろうか。


「怜さん、ごめんなさいっ」

「いえ、構いませんよ。もう少ししたら起こそうと思っていたところでした。せっかくの土曜日です。少しくらいお寝坊さんでも、誰も怒りはしませんよ」

「でもでもっ、早くしないとりっちゃんと約束の時間になっちゃう」

「かしこまりました。迅速に支度いたします」


 寝坊した当人である愛佳が急かすのは悪いと思ったのものの、怜は使用人として文句ひとつなく朝の仕事に取り掛かってくれた。


 ドレッサーに座った愛佳の背後で、普段より手早く髪に櫛を通す怜。亜麻色の長髪につく寝癖はいつもより強めだったものの、怜はいつもどおり綺麗なウェーブを描く美しい髪に仕上げてくれる。


 流石は怜さん――愛佳が首を左右に振りってハーフアップの出来栄えを確かめていると、ふと視界の端にあるものが映った。


 寝室の隅に、黒々とした箱がぽつんと置かれている。高さ五十センチほどの縦長の箱。近未来を感じさせる流線型のデザインは、古めかしい部屋の様子から明らかに浮いている。昨日までの愛佳にとって、それは本当にただの箱に過ぎなかった。しかし今は違う。愛佳はその箱がどのような用途で使われるのかを知っているし、昨晩はその箱を通じて遥かな空へ――


 ――そうだ。夢じゃなかったんだ。


 ディープスペースを通じて体験した仮想現実。遥かな空を飛び、おとぎ話のような世界に降り立ち、魔法の杖で弾を撃ち合うゲームに参加した。そこで出会ったジャスミンという少女――あんなおとぎ話のような出会いが、ゲーム世界の中とはいえ実際にあるだなんて。


「なんだか嬉しそうですね」


 怜に声を掛けられて、愛佳は鏡に映る自身が穏やかな笑みを浮かべていることに気づく。


「うん。わたし、今とっても嬉しいかも」

「水無瀬さんと会えるからですか?」

「それもあるけど――」


 愛佳が体験したのは、あくまで仮想現実という虚構だった。しかしそこで愛佳が出会った人々や、虚構を通じて得た体験は間違いなく真実。凛々しくて素敵なジャスミンも愛佳と同じように現実を生きている。愛佳が暮らすこの屋敷の外にも世界は広がっていて、そしてジャスミンは愛佳と同じ世界に暮らしているのだ。


「――世界はとっても広いんだって、わたし知っちゃったから」


 首を傾げるばかりの怜を後ろに、愛佳は昨晩の大切な出会いを想いながら、鏡に向かって小さく微笑むのだった。



     *



「会いたかったよ、りっちゃん~!」


 玄関の扉が開くと同時に、愛佳はいつものように莉都へ抱きつく。


「もう、愛佳ってば――今日も相変わらず元気ね」


 抱きついて感じるすらりとした四肢の感触。肩上で切り揃えられたさらさらの黒髪に、アンダーリムの眼鏡、凛々しくまっすぐな瞳――何もかもが普段どおりの莉都だ。


 莉都に抱きつく愛佳の姿に、怜も変わらず傍でくすくすと笑みを漏らしている。


 今日はお庭じゃなくてわたしの部屋で過ごすから――そう伝えると、怜は「かしこまりました」とお茶の準備に取り掛かってくれた。宿題ならテラスでやるのも楽しいけれど、今日は昨日終わらなかったディープスペースのセットアップの続きをする約束だった。


 昨晩は訳の分からないままゲームの世界に入ってしまったけれど、きっと正しくセットアップを終えれば、変な画面に混乱することもなくなるはず。今日の夜九時にはまたあの世界であの人と会う約束なのだ。昼の間に莉都からゲーム世界への行き方をきちんと教わっておかないといけない。


「やっぱり愛佳の家はすごいなぁ」


 部屋に通すと、いつものように莉都は感嘆の溜息をついた。


「りっちゃんは相変わらずこのお屋敷が好きなんだね」

「だって本当にすごいよ。天蓋つきのベッドはお姫さまみたいだし、アンティークのひとつひとつがとっても上品で――」


 そう語る莉都の声が、不意にぴたりと止まる。


「どうしたの?」


 振り向くと、莉都は部屋の中に立ち尽くしていた。その表情はどこか遠くを見つめるような寂寥を湛えている。愛佳はその表情を知っていた。それは昨日学校について話していた時に見せた寂しさと同じで――


 莉都はふらふらと愛佳へ近寄り、そして両腕で愛佳をぎゅっと抱きしめた。


「だ、だいじょぶ?」


 莉都は黙りこくったまま、愛佳の胸に顔を埋める。静まり返った部屋の中に、ふたりきり。暫しの間、愛佳は冷たい静寂に身を委ねるしかなかった。


 学校で何か嫌なことでもあったのかな――昨日の様子を含めて考えると、その可能性は高そうだ。勇気を出して訊いてみたい。けど学校にも行けないわたしなんかが相談に乗っても――逡巡する愛佳の脳裏に、ふとあのときの言葉が思い浮かぶ。


 どんなに下手でも、やってみなくちゃ、ずっとできない――それは昨晩あの人に教わったこと。そうだ。学校にも行けない愛佳が、莉都の悩みを解決できるかは分からない。しかしこのままでは愛佳はずっと莉都を慰めるだけのお人形さんだ。それは嫌だ。りっちゃんがいつもわたしを助けてくれるように、わたしもりっちゃんの力になりたい――


 愛佳は勇気を出して口を開こうとして、そのとき――


「愛佳は、私のこと好き?」

「へ?」


 愛佳に抱きついたまま、莉都は小さく問い掛けた。


「それはもちろん――」

「私は大好き。愛佳のことがこの世の誰よりも大切だし、世界でたったひとりの親友だと思ってる。愛佳も私が一番の親友だよね?」


 縋るような莉都の声。幼馴染として長らく一緒の時間を過ごしてきたものの、莉都のこんな声を聞くのは初めてかもしれない。


 そもそもわたしは学校に行けないし、他の友達がいない以上、りっちゃんが一番の親友だよ――そう言おうとして、言葉が喉につっかえてしまう。昨日までは愛佳にとって莉都が唯一の友達だった。けれど昨晩、愛佳はある素敵な人と出会ってしまったのだ。彼女は王子様みたいにカッコよくて、愛佳を外の世界に連れ出してくれて――


「わたしもそうだよ。だから心配しないで」


 海の碧を纏ったあの人を脳裏から振り払って、愛佳は優しく莉都の頭を撫でる。胸の内の動揺を悟られないために、莉都が憧れる理想のお嬢さまを演じるために――

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