雨天決行
紺野しぐれ
Episode 01:商談
遊びには慣れてるつもりだった。
だから、アイツが真面目な顔でリスクを負えないなんて言ったその時も、オレは平気で居られるはずだった。
パワーゲームならお手の物で。全力からちょっと力抜いてやれば、がっくりと相手から崩れる。
そう思ってた。だからこれはオレの勝ちなんだ、って。
もう近づけない、もう……――。
卒業の春を越して、それを嫌と言うほど思い知らされることになった。
六畳洋室に申し訳程度のキッチンが二畳。風呂、トイレはセパレート。
ロフトにはもう使うことなんてないんだろう画材道具一式と、段ボールの山。
シングルベッドとテーブルと冷蔵庫。エアコン。そんな、必要最低限の家具。
男独り暮らし。そんな言葉通りの殺風景な部屋だけど、オレにはあの実家よりずっとマシだった。
冬休みの間に物件を借り入れて、荷物を移して。
兄貴は、快く手伝ってくれた。兄貴と言っても厳密にはオレと血の繋がりはない。
本当なら義理の父に当たる。十しか離れない父親なんて、オレは認められなかったし、向こうもその方がいいと言うから兄貴と呼んでいた。
まだまだ新婚気分でいちゃつく様子を見るのはうざったい。母さんが嫌いってことはないけど、よくわからない胸のもやつきがオレを居辛くさせていた。
それに気づいた兄貴の気遣いが、一番気に障ったのかもしれない。
腫れ物のようで。優しすぎて。近づきたくない相手だった。
長い休みの間はいつも、従弟の
オレの絵を心から認めてくれるジジイ教師との交流と従弟と揃って絵を描いている時間が、オレをギリギリのところで保ってくれていた。
ちょうど一年前の話だ。
新任になった高橋相手に駆け引き仕掛けたのは本当に、きまぐれな暇つぶしで。八つ当たりにも似てた。駆け引きと呼ぶには一方的な強引さ。
優しいのかばかなのか、ノンケのくせにオレのきまぐれに何ヶ月も高橋は付き合った。
今にして思えばその間、オレは兄貴のことなんて頭になかった。ただ楽しくて夢中だった。従順な大人を転がして。ゲスだと思うだろ、オレも、思う。
そういうゲスなオレだから高橋と別れた今も、心が痛むだとか、後ろ髪が引かれるなんてことあるはずがない。
テーブルの上に放ったままのモノクロの写真を一瞥だけして、部屋を出た。
頭を空っぽにして講義そのものに集中して、出来るだけ余計なことは考えないようにしていた。幸いと周りも真剣なヤツが多いからそれは簡単なことだった。
講義が終わった足で、【箱】に向かうのが春からの日課になりつつある。新しい暇つぶしの場所。
駅前の裏通りのビル地下。馬鹿でかい音量でテクノを流して、酒と煙草と馬鹿騒ぎ。くだらないとは思ってるけど、捌け口の要るオレにはちょうどいい場所だった。
入学して間もなく知り合った年上の男がここの常連だった。
水落という名前と、同じ講義を取ってること、二回も留年した一回生だってこと以外はろくに素性を知らない。
水落がラウンジのソファーでテキーラを煽る隣、オレはノンアルコールカクテルなんて名前のただのジュースしか口にさせてもらえなかった。
「仕方ねーだろ、店に入れるだけありがたく思いなさい、ボン」
「その、ボン、てのやめろよ」
「だってボンじゃん。頭の沸いた、イイトコのえろえろ坊ちゃん」
「襲うぞ、タコ」
いやーん。なんてゲラゲラ笑ってる水落を睨んで、煙草に火を点けた。
酒はダメ、煙草はオーケー。…基準が無茶苦茶なんだよ。
水落はオレと同じ、クローズのゲイだった。その手の人間には判る目をしていたから声を掛けた、と言っていた。
オレとしちゃこれとないチャンスだったから、それとなく乗って「遊び」を重ねた。あの時とほとんど同じだ、抜き合うだけ。
不意に、水落がオレの咥える煙草を摘み取った。
視線を上げたら取り上げた煙草をひと吸いする水落。そのまま、首を傾いで唇を重ねて来る。拒む理由なんてない。薄ら開いた唇の間から紫煙を貰うようにキスをする。アルコールの味のするキス。飲ませない代わりにしちゃ、出し惜しみしすぎだってオレは思った。
「ほい」
唇放したら、煙草も戻される。
「ボン、本番シたことないって言ってたか」
水落が自分の煙草に火を点けながら聞いて来る。
「……ない。シなくても十分だったろ」
「…んだそりゃ。襲えねーじゃん、ボン。……試してみるか?」
どんな顔して言うんだそりゃ、と思ったオレは水落の顔をまじまじと眺めた。
ありがちなエロ野郎の卑しい表情はしてなかった。割り切れる遊び前提、ってこと。
「オレ、挿れンのはやだなー」
「いいよ、じゃあ指だけでイける様にしてやる」
唐突さに、噴出しそうになった。
水落は手指くいと曲げて、目を細めてにんまり微笑う。にんまり微笑っても、不思議と嫌悪感のないヤツだった。やろうとしてることは、スケベなのにな。
「シュミ? それ」
「そうだな、特にボンみたいな初々しいの扱うのは、好きだよ」
初物が好きとか、なんて、
「悪趣味」
思わず言葉にして吐いてしまったオレを気にする風でもなく、紫煙をふっと吐き出す水落は慣れてるなあと思う。
グラスに残る甘いばっかりのカクテルを飲み干して、さして吸わないうちに短くなった煙草を揉み消した。
「はぢめての男になるのは楽しいぞお」
征服欲。オレにもある欲求だから、水落の言わんとすることはわかる。
けど、オレは、多分欲しいと思ったら全部手に入れなきゃ気が済まなくなる。
水落みたいにはじめだけで満足なんて出来ない。だから、遊べる相手を選ばなきゃならないんだ。
それとなく息を吐くオレの頭を、水落の指がわしわしと、撫でた。
従弟、千紘とは春先に電話口で喧嘩になってそれきりだった。
オレの居た高校への合格を報せて来たついでに、高橋の名前なんて出すから、反射的に激昂して受話器を叩き切っていた。
今更オレには関係がない男の話だったし、もう描かないと決めた絵の話もしたくなかった。
千紘は、オレより長く絵を描き続けていて、周りからの期待も厚い。
病弱の分、自宅療養ながらに絵と向き合う時間が多くて、鉛筆と紙があればずっと素描をしていたような熱心さだった。
そんな自分のことを棚上げにしてオレに高橋の言葉なんて伝えようとするから。
「……ほんと、余計なお世話なンだよ。ばかちひろ」
おかげさまでオレの気分はアガらない。思い出したくもないことを、ふとした瞬間に勝手に思い出してしまう様になってしまった。
馬鹿みたいに真面目な顔でオレに描き続けろと言ったその言葉、や。
……受け取られなかった高橋がオレのために描いてくれた絵のこと、を。
ため息はいつも紫煙交じりだった。当時はハク付けの真似事だった喫煙が、次第に本気の紛らわせ行為に変わっていた。
さすがに、仕送りしてくれる兄貴にバレたら面倒なことになりそうだと思ったオレは、煙草の小銭を稼ぐ必要があった。だけど、バイトをするだけの纏まった時間を取る余裕はなかった。これは多分、芸大に行っていたところで同じだとは思うけれど、レポート課題をこなすだけで時間を削がれそうな勢いに、五月の連休で気づいた。
年追って三回生からはバイトなんてバッカじゃねーの、ってぐらい忙しくなる、って水落が現役同期生から聞いた話を零していた。
で。結論から言うと、オレは水落の紹介で同じ大学内のエリート三回生(ってヤツが言ってた)、嶋谷という男に会うことになった。
水落の指定で、大学の側の茶店で正午に待ち合わせ。
同学の生徒の出入りも多い店で、小奇麗なカフェだった。人通りの見える、窓際の席を陣取ってから珈琲をひとつ頼んだところで水落が背の高い、いかにもなインテリの男を伴って現れた。
水落が対照的なへらへらした無精男なのもあったけど、襟元のしっかりしたシャツや、鼈甲のループタイなんて装いがしっくりと似合う出で立ちが男をよく表しているって印象だった。
「コイツが薬学の嶋谷。お前よりボンボンだから遠慮なく集れ」
軽口叩きながら水落が椅子を引いて腰掛ける。
嶋谷はオレをすこし驚いたような顔で凝視しながらそれに倣って、へえ、と感慨深そうな息を漏らした。
「正直期待なんてするはずもなかったんだけどさ、ちょっと、興味が沸いた」
「だっから言ったじゃないよ、お前でも難なく受け入れられるって。俺様を信用なさいな」
どうだとばかりに胸を張ってみせる水落と、まだまじまじオレを見てる嶋谷相手にオレは状況が理解出来ない。とにかく、わかったのは問題なく取引が成立しそうだということだけ。
オレの珈琲が届くと同時に、水落が珈琲、嶋谷が紅茶を頼んだ。
ひとつ断りを入れてから角砂糖をひとつ放り込む。
「……話が見えないンすけど、つまり?」
従業員が引いたところでオレは訊ねた。
「商談成立、俺は君に金銭を払ってその体を借りたい。…多少の条件があるんだが、いいかな」
オレが無言で頷くのを待って、嶋谷は続ける。
「週一でも二でも、その辺は君の言い分で構わないが、外に居る時だけ恋人の振りを演じてもらいたい。出来るなら、その――」
「女に化けて欲しいんだとよ」
言い難そうに声を潜めたところを、水落がバッサリと言い切った。こういう時、水落はまるで悪びれない性格をしていた。オレはちょうど、珈琲を一口含んだところで思わず噴き出しそうになるのを口許押さえて俯くことでどうにか堪えられた具合。
ゆっくり、嚥下した珈琲が熱い。のどが、ヒリヒリとした。
「あの……、それなら女を雇う方がいいんじゃ」
「女じゃ襲い、襲われるリスクだってあるし、何せ孕みかねん。ボン、こいつは取り敢えずの縁談を断る理由が要るんだよ。嶋谷はノンケだから変な心配はしなくていい。ただちょっとの間だけ付き合うフリしてくれってだけだ。カラダ売るにしたってこれ以上簡単で安全なことはないだろ?」
「う、………ん」
オレは冷や汗を掻いた。てっきり、同じ性癖の水落が紹介してくれるというのだから、同じゲイ相手だとしか思っていなかった。まさか、そこでノンケつれて来てあまつさえ女装だのフリとはいえ交際だの、いきなり言われたんじゃ頭が追いつかない。
簡単じゃーん、なんて笑う水落と、無茶な画策を実行する気の嶋谷はしれっとした顔で注文のカップソーサーを受け取っていた。
「君にもプライドがあるだろうから、断ってくれるのも構わないよ。出来れば受けてもらえると助かるけれど」
嶋谷は気にしないでいいとばかりに薄く微笑って紅茶を音を立てずに啜る。
所作のひとつひとつに育ちのよさのよく表れる男だと思った。そういう家柄だからこそ、理由なく縁談を断るのには手を焼くということなんだろう。
「……わかりました。あの、具体的にはどうすればいいんですか」
「ありがとう、……そうだね、服装は普段使いのものでも構わないのじゃないかな。ただ、身バレに繋がるのも面倒でしょう、こっちでカツラぐらいは用意させてもらうよ。それと、報酬は一度につき三千円。交通費や交際費は俺が持たせてもらうから、心配しないでいい」
「さすがボンのボン、出すねえ。俺が代わってやってもいいんだぜ」
口笛鳴らして差し挟んだ水落は、口先ばかりだ。
「水落じゃ女になるわけないじゃないか」
「水落が女になれるかよ」
前から横から、ハモる声に、全員どっと笑う。
あら、なれてよ。なんてどこぞのオカマ振る水落は、満足そうに笑んだ。
それじゃあと連絡先を交換して、取り敢えず事は済んだ。
色々、不安が残ったけど、これもこの先のことを考えるのなら悪くない選択だ、と思った。
高橋の呪縛から逃れるためには。
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