嫁ぎ遅れの元国王代理

第1話


「ティーシャ殿下」

 どこか嗜めるような、それでいて懇願するような声にティーシャは目を伏せる。どうしようもないのは分かっていた。

 国王である兄と義姉が友好国であり、個人的な親交もある王太子の結婚式に参列したその帰り、嵐により船が行方知らずとの一報が入ってから一週間が過ぎた。

 次期国王である甥はまだ七つの幼子。先代王妃である母は足を悪くし立つこともままならない。ならば王妹であり成人しているティーシャが一時的に取り仕切るしかない。ティーシャはいつ何時何があっても国王の代わりを務められるだけの教育を受けてきたのだ。

 すぐに、船が見つかると信じていた。不思議なほど強運に満ちた兄のことだ。スリリングな旅だったなんて不遜なほどに笑いながら帰ってくるに違いないと信じ、おっとりとした義姉はふわふわして身体が宙に浮いたのよなんて微笑みながらお願いしたお土産をくれるものだと思っていた。甥を慰めながら捜索の指示を出し、留守を任されたものとして宰相と信頼できる貴族と共に頑張ってきたのだ。

 しかし一向に行方は知れず、一週間。王妹としての公務しか出来ぬこの状況、この先必ず無理が生まれる。国王不在の不安定さに国は陰り、経済も滞り、じわじわと弱っていくだろう。それだけは避けなければならない。

 正式に兄達は星流れの向こうへ御渡りになったのだと周知し、国王としてティーシャが立たねばならぬ。その決断の時期は目前だった。


 宰相に騎士団総裁、各大臣が集まる会議の中、静寂がしばらく。ふう、とティーシャの口から溜息が漏れた。

「…………わかりました。けれども、陛下がお戻りになるか、王太子が成人するまでの間だけです。この国の先の王は、王太子のみですから」

 今年で十六の若造ではあれど、ティーシャは常に兄の代わりになれるよう教育を受けていた。それがティーシャの存在意義なのだから。

 全員の了承を得たことを確認し、ティーシャは一度目を閉じた。そしてすぐに瞼を持ち上げると口を開く。

「もう一つ、よろしいでしょうか。……陛下の代理として立つ間、私はどなたとも婚約せず、婚姻を結ばず。王妹の婚約者と国王代理の婚約者では意味合いがあまりにも違いますから」

「その方がよろしいでしょう。同意致します」

 真っ先に声を上げたのは外交大臣を務めるワイリーズ公だ。宰相もそれに続き、ゆっくりと同意が広がる。最後に騎士団総裁がティーシャを見た。

「殿下はそれでよろしいのですか?」

「なによりも優先すべきは国でしょう。それが王女の務めです」

「年寄りの妄言として聞き流して下さい。……この先、殿下は恐ろしく苦労をなさります。その時に心を休めることのできる相手を失うと言うことです。婚姻の先延ばしにするだけでは、駄目なのでしょうか」

 心から心配しての声なのだろう。ティーシャは笑いながら首を振った。

「私のせいで素敵な殿方の婚期を遅らせるわけにはいきません」

 戯けたように言えば、反対の声は一つもなくなる。三日後に国内外に正式に通達することを告げ、この議会の終結を告げた。

「ワイリーズ公爵」

 席を立つ前に、ティーシャはそっとワイリーズ公爵に声をかける。思ったよりも声が響いて、あら恥ずかしい、なんて笑う。誰もが見ぬ振りをしても、耳をそばたてているだろう。

「明日の午後にお時間を頂けるかしらとマドル様にお伝え頂けませんか?」

「……例え何かあれど、愚息は殿下を最優先致しますよ」

 ふふ、と口元を隠しながら笑う。

「では、私の婚約者様によろしくお伝えくださいませ」



 翌日。午後からと言ったのに朝一でマドルが登城したとの知らせに、ティーシャはならお昼をご一緒にと使いを出した。

「ふふ、せっかくだからマドル様から頂いたドレスにしましょう。深い臙脂のレースのドレスがあったでしょう?」

 午前の公務を終え、ティーシャは楽しみである様子を隠しきれないというように侍女に笑いかける。普段ならば感情を表に出さない優秀な侍女は、一瞬だけ苦しげに顔を歪めたものの、すぐに用意してくれる。リボンとレースで髪を纏めて、同じくマドルから貰ったネックレスにピアスを付け、軽く化粧を直して貰い。

「お食事の用意がまだ出来ていませんので、こちらで少々お待ち下さい」

 そう言って案内されたのは、ティーシャの婚約者の為に用意された一室。警備の近衛兵にドアを開けて貰えば、窓際に立っていた臙脂色の髪の婚約者は、すぐにティーシャを向いた。彼の胸元に飾られたブローチは、ティーシャが贈ったティーシャの瞳と同じ色の美しいエメラルド。

 ぱたん、と扉が閉まり、二人きり。本来ならば侍女が中に残るであろうに、気を使わせたかしら、なんてティーシャは遠く思う。互いに見つめ合ったまま、しばらく動けずいたが、ティーシャは微笑みながらご機嫌よう、と声をかけた。

「マドル様、午後からと言ったのに随分とお早い登城で、びっくりしましたわ」

 明るい声を上げながら、ゆっくりとマドルに近づく。

「でも一緒にランチを頂けるのは嬉し……」

「ティーシャ」

 遮るようにマドルがティーシャを呼ぶ。普段は殿下としか呼んでくれないはずのその声にあと数メートルと言うところでティーシャの足が止まった。

「……ずるい人」

 ティーシャの声が微かに震える。

「滅多に呼んでくれないくせに」

 ティーシャの口元から笑みが消える。

「……ティーシャ」

 滅多に呼ばれない、それでも特別だと確信させるようなその声にもう一度、呼ばれてしまえば、その声が震えていることに気付いてしまえば。ティーシャはもう気丈に振る舞うことなんてできなかった。どちらともなく互いに駆け寄ると、強く強く抱きしめ合う。

「マドル様……、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

「いや……分かってる。君が正しい。君は決して間違えていない」

 ぎゅう、とキツく抱きしめられるその腕の熱に堪らなくなって、ティーシャの目から涙が溢れ出る。


 愛していた。愛されていた。それこそティーシャが五つ、マドルが八つの時に定められた政略的な意味合いの婚約では合ったが、それでも共に過ごすうちにティーシャはマドルへ、マドルはティーシャへ恋をした。早くマドル様の妻になりたい、なんて頬を膨らませては、一番待ってるのは俺だ、なんてやりとりをして。その度に侍女や護衛を呆れさせたものだ。

 あと、三年。甥である王太子が十になれば。あと三年でティーシャは王族から離れ、マドルへ嫁ぐ筈だったのだ。


 この先兄夫婦の不在が続くとなると、ティーシャは国王代理として立ち続ける。もしティーシャが子供を産み、それが王子だとすれば。兄夫婦の一人息子でありティーシャの甥の立場が危うくなるのだ。たとえ本人達がどうするつもりはないと言っても、貴族が分裂する可能性もある。その可能性の芽は摘まねばならぬ物であり、この国の王女として生を受け、国民の税により学を得たティーシャの責務だ。


「マドル様……今だけ、今だけです。今だけ、私を貴方を想うだけのただの女であることを、赦して」

 成人の祝いをしたのはつい数ヶ月前だ。ティーシャは王妹として、同年代の娘よりもずっと大人びいていた。こんなふうに泣くことなんてもうずっとしていない。けれども留めどなく涙が溢れる。

「ティーシャ。忘れないでくれ。俺は心から君を愛している。好きだ、ティーシャ」

「私も、私も愛してます……マドル様の、妻になりたかった……っ!」

 今年七つになった甥が成人するまで九年。国王として確かに国を任せられると判断できるにはさらに時間が掛かるだろう。マドルは公爵家を継ぐ物だ。それが今後九年未婚でいるのは難しいだろう。九年も経てばマドルは二十七。その頃には公爵家を継ぎ、後継の教育も始めなければならない。

「今だけ、酷いことを言っていい?」

 はらはらと落ちる涙をマドルが口付けで拭う。その温もりを忘れないように目を閉じて噛み締め、ティーシャは小さな小さな声で囁いた。

「…………待って、いてほしい」

 ふ、とマドルが息を呑む。それは王女が口にするには、あまりにも無責任過ぎる言葉だ。けれどもあまりにも小さな声で、震えていて、否定してしまうには苦しい言葉だった。

「分かってるわ。大丈夫……どうか、幸せになって」

「ティーシャ」

「愛してます。いつか忘れていいわ。けれど、あと数日の間だけは、どうか私の恋を覚えていて」

 お願い、と呟いた言葉はキスで飲み込まれる。まだ片手で数えるほどしか重ねたことのない唇だった。この唇の温もりを、柔らかさを、涙の味を。ティーシャはきっと、永遠に忘れられない。


 ランチの時間が過ぎてアフタヌーンティーの時間になるまで、気を遣ってか人が呼びに来ることはなかった。




 それから、二日後。ティーシャは代理として戴冠した。



 一年が過ぎ、先代国王夫妻の葬儀を上げた。

 二年目が過ぎ、正式に戴冠式を行い、女王となった。

 五年目に一度戦争の危機があったが、どうにか未然に防げた。

 七年目に大雨による災害が起きたが、事前に予測できたことによりある程度は被害を抑えられた。

 九年目までは復興に力を入れた。

 十年目、二年後にこの冠を甥へ継承することを告げた。

 十一年目は、公務と王としての在り方を、ひたすらに甥へ伝えた。


 そして、十二年が過ぎた。



「陛下。十二年間、本当に御立派でした。先代も、先先代も陛下を誇りに思うことでしょう」


 女王として肩に背負い続けていたマントを。頭に頂き続けた冠を。


「陛下。……いえ、ティー姉上が繋いできたこの国を、次は私が守り抜きます」


 立派になった甥に、そっと渡す。



 二十八歳の、秋。ティーシャは女王ではなくなった。








 まだいくつか引き継ぎや公務はあれど、女王だった頃よりもずっと仕事は減っている。継いだ国王はまだ妻や婚約者がいないため、そちらがやるはずの仕事はまだまだやってはいるものの、本当ならばうんと減っている筈だった。

「姉上っすみませんちょっとだけ助けてください」

 まるで子犬のように泣きそうに駆け込んできたのは、甥であり先日戴冠したこの国の国王陛下である。歳の離れた弟のように、歳の近い息子のように。末の姫であり未婚であったティーシャが周りの手を借り、必死に育て上げた立派な陛下だ。

「陛下。陛下であろうお方が前触れどころがノックも無しに淑女の部屋を訪ねるなんてそんな愚かなことを……」

「姉上…………」

「……育て方を間違えたわね」

 お茶の用意をお願い、と言ってティーシャは苦笑する。

「ガゼア。私の親愛なる陛下。どうなさいましたの」

「公爵達があと三日以内に来月のパーティーのパートナーを決めろって脅してくるんだ…………っ」

「先週の内に内定しなくては、レディのドレスやアクセサリーの準備が間に合わないって私はお伝えしましたよねガゼア?」

「ほぼほぼ婚約者を決めるようなものじゃないか!!!」

 無理だっとクッションに顔を埋めて泣き真似をする甥でありこの国の国王陛下であるガゼアの頭をティーシャは遠慮なく扇子で叩いた。

「ほぼほぼ内定してるじゃない。さっさとノーフィア嬢に告白してきなさいませ」

 学生時代から焦ったい両片想いが、まさが戴冠後まで続くと予想できたのは宰相ぐらいだろう。公爵達もここまでガゼアがヘタレだとは思わなかったようで、自分の娘をけしかけるぞ、と脅してるようであるが、ティーシャはそれを黙認していた。ティーシャだって、手塩にかけて育ててきた甥がここまでヘタレだとは思わなかったのだ。

「ガゼア。貴方が昔からノーフィアしか見てないことは貴族どころか、国民にまで知られてるわ。それなのにパートナーに誘わないなんて、ノーフィアに恥をかかせる気かしら?」

「…………どうやって誘えばいいんだ………………」

「政策を考えるよりも簡単なことよ。三日以内に決めなければ、ノーフィアをミューゼの侍女につけるわ。ミューゼが寂しがってましたからね。ノーフィアがいれば心細くはないでしょう」

半年後に他国への輿入れが決まっているガゼアの二つ下の妹の名前を出すと、それは駄目だ、とすぐに返事が返ってきた。

 甘やかし過ぎたのかもしれないが、これでもノーフィア以外のことについてはきちんとできるのだ。求心力はティーシャよりあると思う。

 ティーシャは背筋を伸ばすと、上に立つために身につけた威厳と声色を出す。

「ガゼア。貴方は国王陛下です。そして今、世継ぎは一人もいない状態。私も貴方もいつなにが起こるのか分からない状態なのです。私は一刻も早く、次世代へ続く王太子の誕生を望んでます。……ガゼア。この後は建設途中の河川研究施設の視察でしょう。遅くならないのならば帰りにノーフィアの元へ寄りなさい」

「……はい」

「それから。ドレスもアクセサリーも貴方が用意してあげなさい。どんな物がいいか、何が似合うのか。いつまでも私に甘えず、貴方が一番ノーフィアが美しく装える物を選ぶのです」

「はい。……姉上。あとで姉上が利用している仕立て屋をいくつか教えてくれないか」

「よろしくてよ。それと、そろそろ私のことは姉上ではなく、叔母君とかティーシャと呼び捨てになさるとか、その辺りも考えなさいな」

「それは俺には恐れ多いことだ、敬愛なる前国王代理殿」

 そういうとガゼアはティーシャの手を取り指先に触れない程度に唇を寄せる。しかしティーシャは呆れたように、それをノーフィアにやればよろしいのに、と呟くばかりだ。

「そういえば姉上、来月のパーティーは誰にエスコートを頼むんだ? 今までは俺が務めてきたが……」

 少し温くなった紅茶を飲みながらガゼアが問いかける。ティーシャは首を傾げながら優雅に微笑んだ。

「一人よ。お母様が調子が良ければ座ってるだけですけど顔を出したいと言っていたから、ずっとお母様のそばにいるつもりなの。ある程度したらお母様と下がるつもりよ」

「お婆様は近衛に任せれば良いじゃないか」

「口実よ、口実。私がダンスが苦手なのは知ってるでしょう?」

 国王代理の十二年間。ティーシャが踊ったのは両手で数える程度だ。その殆どがガゼアだったり、他国の要人であったり。しかしガゼアはティーシャのステップは完璧であり、美しく優雅で羽のように軽やかなことを知っている。けれども苦手だと公言して、それをガゼアより年上の貴族達は甘んじて赦している。何があるのだろうとは思えど、幼い頃の記憶が曖昧なガゼアは踏み込みきれない。

「そうね、来月はノーフィアとだけ踊りなさいな。私のことは気にしなくて良いわ」

「姉上で息抜きしないと俺が死んでしまう。ノーフィアと至近距離で数時間とか無理だ、緊張で星渡りする」

「私を息抜きにする愚か者は星川よりもさっさと公務に向かいなさいな」

 おかわりのポットを下げるように言えば、姉上ぇ、とあまりに情けない声が響く。けれども本当にもうそろそろ時間だろう。陛下、と外から側近の声が聞こえる。

「……はぁ。ではティー姉上、仕立て屋の件よろしく頼む」

「ええ。ただし、今日中にノーフィアをお誘いするのよ」

 念押しに苦虫を噛むような顔で頷き、ガゼアが部屋を後にする。

 静かになった部屋でティーシャはお茶のおかわりを用意して貰うとふう、と息を吐く。

「ルル。そこに座りなさいな。お茶に付き合ってよ」

「ではお言葉に甘えて」

 ずっと横に立って給仕をしていた侍女が先ほどまでガゼアが座っていた場所に座る。学生時代からの友人であるルシアンナはティーシャの筆頭侍女であり気心が知れている。自分自身にお茶を注ぐと、ルシアンナは呆れたようにティーシャを見た。

「ティー。貴女、これからパーティーになるべく参加しないつもりでしょう?」

「私が顔を利かせて、陛下の邪魔をしてはいけないわ」

「そうじゃなくても貴女の出会いを探さなくちゃ。もう独身を貫く必要はないのよ?」

「私、結婚するつもりはないと言ったでしょう?」

 ティーシャはそう言って微笑む。

「もうね、恋をする歳でもないわ。どこかへ嫁ぐ必要性もない。陛下の後ろ盾としてそのうち小さな領地と離宮を貰ってゆっくり過ごすつもりよ」

「でも、ティーも知っているわよね? ワイリーズ公は未だに独身で何一つ噂がないことを」

 思わずティーシャは口をつぐむ。

 そうなのだ。四年ほど前に当主の座についたマドル。もちろん何度も公爵と国王代理として顔を合わせた。しかし外交大臣は先代公爵のマドルの父のままであることもあり、重大な会議やパーティー以外殆どの夜会に出席せず、領地にこもりきりの彼は何一つ浮いた話もない。

 もちろんもしかして、と期待をした時もあった。けれども、その期待を持ち続けるだけの熱はもうない。その熱を抱えてこなせるほど、国王代理の立場は甘くないのだ。

「ルル。私もう二十八よ。適齢期なんて十年過ぎてるわ。それにマドル様も三十一よ。……いまさら、だわ」

「二十八とて、ティーは可愛らしいわ。それに、私は将来的にティーの子供の乳母になりたいの。何年経っても旦那を頑張らせて何人でも産むつもりよ」

「残念ながら、それは叶わず八十まで私の侍女のままよ」

 そんな軽口を叩いて、さて、とルシアンナが立ち上がる。

「本日午後は書庫にて管理封書の確認がございます。今から先に目を通しておく資料をお持ちしますね」

 あっという間に友人から侍女に戻ったルシアンナに、ティーシャはよろしくね、と頷く。

 マドル様、と。一度だけ口の中で呟く。懐かしくて甘い、初恋の音がした。





 無事にガゼアはノーフィアを誘えたらしい。ファーストダンスを楽しそうに踊る二人を、ティーシャは母である太后と眺めていた。

「ああ、これで悩み事が一つ解決した。ティーシャ、ありがとう」

「いいえお母様。でも残念ながら、婚約にはまだまだ遠そうよ」

「嘘だろう? まさか愛の言葉一つ告げてないのかい? あの陛下は」

「残念ながら」

 太后は呆れた、と言わんばかりに頭を押さえる。後ろで侍女が笑いを誤魔化すように咳き込んだ。

「さて、何か温かい飲み物をお持ちしましょうか?」

「いいえ、もう少しこのまま。ああ、でも欲が出てしまう。曽孫の顔を拝むまで妾はしぶとく生きるね」

「お母様、なんだかんだ玄孫まで見れそうね」

「その時は妾は魔女だと自称しようか」

 くすくすと笑っていると曲が終わる。国王陛下とその想い人の親しげな様子に周りの視線は微笑ましげだ。

 けれどもその中で。一つ、違う動きを見た。その視線はティーシャと絡んで、ティーシャの口からはあ、と吐息が溢れる。少し、視線が外せなくて。けれどもどうにか無理矢理視線を外して太后を見るが、太后は交わった視線に気付いたのだろう。微笑みながらティーシャの背中を軽く押す。

「ティーシャ。お行きな」

「お母様」

「妾はもう少しここにいるから」

 こくり、と頷いてティーシャは王族の席であったバルコニー席から降りていく。階段を降り切ったのと、視線の彼がそこに辿り着いたのは同時だった。

「親愛なる殿下。どうか、この私に一曲エスコートさせて頂けませんか」

「…………私で、よろしいのですか? マドル様」

 よろこんで、とは言えなかった。ここ数年、マドルが踊るのを見ていないのだ。なんなら、マドルが晩夏と建国祭のパーティー以外に参加するのを見たのが十年ぶりになるかもしれない。そんな中で、一番最初に踊る相手が、ティーシャで良いのだろうか。

「私は、貴女が良いのです。ですが、貴女の許可も得たいのです」

 あまりにも真摯な視線だった。もう過ぎ去った熱のはずだった。差し出された手に指先を乗せると、きゅ、と力が込められる。優しく引かれる感覚が懐かしくて、昔に戻ったようだ。

 ダンスホールに出ると、周りの視線を痛いほど感じる。特にティーシャよりも上の世代に至っては、ティーシャとマドルの事情をよく知っているだろうから、尚更だ。

 向き合って、手を取って、近付いて。曲が始まるまでの静かな数秒。互いに見つめ合うその瞬間、まるで世界に二人きりになったような感覚に陥る。静かに流れ出したのは、少し古いワルツだった。

「……殿下は、お変わりないですか」

 そう言ってから、明らかに話題作りが下手すぎた、とマドルが苦い顔をする。ティーシャは目を丸くして、思わず笑い出してしまった。

「ふふ、マドル様はしばらく社交から離れていたから、うまくお話しできなくなってしまったようね」

「……家族以外の女性と話す機会が殆どなかったんだ」

 まるで十二年前の続きのように。親しい間柄のように。けれどもそれは一瞬で、どうにも互いに口を噤んでしまう。何かを話したくて、でも何を口にすれば良いかわからない。

 ティーシャにだって、たくさん聞きたいことがあった。

 どうして結婚しなかったのか。もしかして待っていてくれていたのか。何故今誘ったのか。どうして、どうして。まるで。

 久々のダンスはあっという間で、あと数小節で曲が終わってしまう。

「マドル様」

 何か、言いたくて。

「はい、殿下」

 なにか、なにか。

 でも、聞きたいのはそれじゃない。

 もう、いい歳なのだ。恋する乙女の持つ熱は無いはずなのだ。だからこそもっと落ち着いて、冷静に対応できるはずだったのに。落ち着いて思い出を語らったりして、遠い微かな夢だけ思い起こして、終わりにするはずだったのに。

 ああ。終わってしまう。夢のような時間だった。初恋の続きのようで。十二年前に消えた温もりの残り香が、甘い。

 曲が終わり、ティーシャは手を離し一歩離れるとそっと礼をする。けれども頭を上げるよりも早く。マドルがティーシャの手をもう一度掴んだ。

「殿下」

 掴まれた手から熱が移って、全身に伝わっていく。

「……少し、庭園を歩きませんか」

 話し足りないのは、きっと彼もだったのだろう。喜んで、とティーシャは精一杯の笑顔を浮かべた。


 人払いされた夜の庭園をマドルのエスコートで歩く。

「……夜にマドル様にここをエスコートされるのは、初めてね」

「そうですね。ああ、昔ここに植わっていた赤い薔薇を、どうしても殿下に贈りたくてこっそり庭師に掛け合ったことがありました」

「あら、それはいつのこと?」

「確か俺の家主催の夜会です。前日に殿下に山のように赤い薔薇を贈ったことがあったでしょう?」

「まあ、ここの薔薇だったのね」

 他愛もない話をしながら、四阿に辿り着く。並ぶようにベンチに腰掛けると、マドルがすぐにジャケットを脱いでティーシャの肩にかけた。

「懐かしいわ。マドル様はいつもそう。私をまるで物語のお姫様のように扱ってくれたわ」

 もうお姫様って歳じゃないのよ、とティーシャが笑うがマドルはそっとティーシャの手を握ると真っ直ぐに見つめた。

「そうですね。俺も、もう殿下の王子様でも騎士様でもない。嫁を貰い損ねた男です」

「まあ、マドル様。貴方ならいくらでも相手がいるでしょう。滅多に社交界に出ないから素敵なお嫁さんを貰い損ねるんだわ」

 少しだけ、期待していた。けれどもマドルが口調を崩したのはダンスのあの一瞬だけで、彼がティーシャのその名前を呼ぶことは無くて。

 だから、きっと思い出なのだ。あの頃の残り香を、残り火を。懐かしいと思い起こして、おしまいにする。

 ティーシャは、そのつもりだったのだ。

「殿下。今度、二人で西の湖へ行きませんか? 近くの街に、おすすめのカフェがあります。御忍びになりますが如何でしょう」

 だからこそ、突然言われた言葉に咄嗟に反応できなくて、え?とまるで少女のような声が溢れてしまう。

「二人で?」

「はい。二人、です。護衛は付くでしょうけれども」

「まるで、デートのようね」

「はい。デートのお誘いをしております」

 今度こそティーシャは驚いて息を呑んだ。掴まれたままの手が熱くて、でも夜風は少し冷たくて、顔はきっと真っ赤で。

「もう一度貴女の名前を呼ぶ為に、機会を下さりませんか?」

「……マドル様、しかし」

「きちんと理解しています。貴女はこの十二年間、見事にあの頃の情を置いて、この国の君主として立派に勤めていました。俺も結婚こそする気が起きないものの、殿下への恋を封じて、敬愛のみで接したつもりです」

 そのはずだった。この十二年、彼から熱を感じたことなど一度もなかったのだ。

「……今の私は、マドル様の小さいお姫様ではないわ」

「はい。私も、殿下に焦がれられるような王子でも騎士でもありません」

 もう一度言葉を繰り返して、ティーシャは目を瞑る。そしてぎゅ、とマドルの手を握り返した。

「……わかったわ。よろしくてよ。日時については、また文を送るわ」

「しばらくはこちらのタウンハウスに滞在しますので、いくらでも殿下に合わせます。……ところで殿下。これは忠告なのですが」

 不意に冷たい指先がティーシャの頬を撫でた。ハッとしてティーシャが目を開けると、さっきよりも近い位置にマドルの顔がある。

「そのような愛らしい顔で目を閉じると、男はキスしてもいいのかと勘違いします。お気をつけ下さい」

「い、意地悪になったわね……っ! 私の優しい王子様はどこかしらっ」

 咄嗟に手も離して距離を取ると、マドルは何もしませんよ、と言わんばかりに両手を上げて苦笑する。

「こっちはもう三十も超えてますからね。殿下を口説く為にはどんな手段も惜しみなく使いますよ」

 さあ、中に戻りましょう、とマドルが手を差し出す。ティーシャは何度か深呼吸して熱を落ち着かせてからマドルの手を取った。

「……私、結婚するつもりはなかったのよ。陛下が結婚して子供が産まれるまでは、余計な争いを生みたくないもの」

「ええ、わかってますよ」

「貴方は、公爵よ」

「はい。分家に良き養子の候補がいます」

パーティ会場に戻る道すがら、視線を合わせないままティーシャは言い訳のように口を開く。けれども一つ一つ不安の芽を摘み取られて行き、十二年という時間はこんなにも人間を強かにするのかとティーシャは溜息をついた。

「おや。今夜は戻らないかと思ったのに」

 太后はマドルにエスコートされ戻ってきたティーシャを見てそう言い放つが、動揺ひとつ見せつずにティーシャは聞こえないふりをした。

「残念ながら、まだそこまでは口説けていません」

「そうか。ならよく頑張るように」

「はい」

 母と元婚約者の会話をどうにか平静を保ち聞き流し、ティーシャはマドルを見上げた。

「マドル様、ありがとうございました。私はもう下がりますが、貴方はどうぞお楽しみ下さいませ」

「はい。ただ、俺が今宵踊ることはもう無いでしょう。では殿下、貴女からの手紙を楽しみにしております」

 にこやかに笑い去っていくマドルに、ティーシャは王族の顔を貼り付けながらもいつ悲鳴が溢れないかハラハラした。太后が笑いながら下がることを告げ、侍女を連れて会場を後にして。

「わ、私はもう二十八なのよっ! 年相応に扱っていただかなければどうすればいいかわからないわ!!」

 部屋に戻るなり叫んだティーシャに、つい太后は声を上げて涙が出るほど笑った。



 翌日、マドルへの手紙の紙や封筒、インクの色に悩み頭を抱えるティーシャの姿があったという。


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