第92話 今だから言えること②

「学会の資料が入ったUSBメモリーを家まで持ってきてほしいと言うんです。修正したい箇所があるからと」


 ディ・カプアは上機嫌だった。届けてもらったことに対して礼を述べ、コーヒーを飲んでいくかと勧めた。


「親しげだったので、かねの話はもう忘れたのかと思いました」

「けど、そうではなかった?」


 何の行き違いか、彼は要求の額を一両日中に渡してもらえると思っていたらしい。無理だと言うと、露骨に顔を曇らせた。すぐに用意はできないと言っても、聞く耳をもたなかった。


――もう理事長に報告するしかない。来週から大学に籍はないからな。


 言いながら携帯電話を取り出し、背中を向けた。


 後になってみると、報告する気はなかったのだろうと思う。教授自身も違法行為に手を染めていた。本気と思わせるために電話するふりをしたのではないか。しかし、そのときは気が動転していた。非常勤講師として採用されたとき、喜んでくれた母親の顔が脳裏をよぎった。とにかく電話をさせてはならなかった。


 ディ・カプアは青銅の塊で後頭部を一撃されて倒れた。そこを、動かなくなるまで何度も殴った。動悸がおさまらず、膝が震えていた。泥棒が入ったと見せかけることを思いつき、室内を散らかした。チャットの履歴を隠すために携帯電話を持ち出した。

 大学に戻ると、コスタ教授がいつものように事務員と喧嘩していた。


「彼にアリバイ工作を頼んだと思っているようですが、違います。コスタ教授は僕が自宅で着替えてきたことにも気づかないようでした。自分もずっといたようなふりをして話し、それからフラヴィアの作品展に行った。あれをどうしようかと、ずっと考えていましたが……」

「トロフィーのことかい?」

「持ったまま逃げてきてしまったんです」

「研究発表会のあいだ、ずっとリュックに入ってたのか?」

「終わったら美術館に行くことになっていました。血のついたトロフィーを持っては行けない」

「ああいうところは入口で手荷物検査があるからね。家に隠しておけばよかったんじゃないか?」

「フラヴィアが来るかもしれないと思ったので。ニコラスには何の恨みもなかったけど、そうするしかないと思えてきたんです」


 ニコラスは発表のあいだ、自分の荷物を小部屋に置いておき、終わると参加者と話しはじめた。研究内容について指摘を受けていた。チャンスはそのときしかなかった。帰るふりをして席を立ち、暗がりにある彼の濃緑色のリュックサックに近づいた。


「USBメモリーはどうした?」

「血がついていたので、携帯電話と一緒に川に捨てました。夜になってから衣類や自分のリュックを袋に入れて廃墟に捨てた。けど、あんなところまで捨てに行く必要なかったんです。死体は翌日まで見つからなかったし、警察は僕を疑っていなかった。家の前のゴミ箱に入れて、収集車に持って行かせればよかった」

「だけど、フラヴィアは疑っていた」


 冷えたペットボトルの表面を水滴が伝って落ちた。

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