普段出来ないこと

 彼は病室にいた。

 魔人は外からその様子を眺めていた。横にいる看護師に話しかける。


「あの方の状態は悪いのか」

「ええ、もう数ヶ月あのままです。身よりもなく、目を開けることもなければ、話すこともありません。息子さんがいると聞いたのですが、絶縁していると聞いていたので、こうやっていらっしゃるなんて驚きです」


 言い終えた看護師は横の魔人をみた。


「それより寒くないですか? 顔真っ青ですけど」


 魔人は紳士的に微笑んだ。


「大丈夫だ。こういう顔なだけだ」


 彼は病室のベッドに横たわる患者の横についた。点滴につながれ、しわしわになり、余命が後わずかだということが見てとれた。


「おやじ」


 声をかけてみたが、当然反応はない。試しに手をさすってみたが、がさがさの感触は生命の息吹とは程遠いものだった。

 この手で彼の母親は何度も殴られた。彼も殴られた。酒を飲むと暴力をふるっていた父から彼と母は逃げた。彼にとって父はもういないものだと認識していた。とあるつてから、父が危篤と聞いた。だが会いに行くつもりはなかった。

 ただ失ってしまってからは後戻りはできない、そう思うとふと来てみてもいいかもしれない、そんな風に思ったのだ。

 目の前に横たわるのは、よぼよぼになったおとなしい生命体。

 あれだけ恐怖、憎悪の対象だった人物が、終わりが近づくとこうも変わるのか。ふと、忘れかけていた父との思い出が蘇った。


——ほら、颯太が好きなもろこし輪太郎、買ってきてやったぞ——


 会社がうまくいってたころは、みんな笑顔だった。倒産して、日雇いバイトを繰り返すようになってから父は酒に溺れた。だからといって暴力をふるっていいわけではない、しかし人間誰でも強くはいられない、それは今の自分が身をもって分かっている。


「おやじも大変だったんだよな」


 その時、父の手が微かに動いた。それは重力に従った無意識の行動だったのか、単なる痙攣だったのか、わからない。目をみてみると、閉じられた瞼が湿っているように見えた。それをみてから、彼は立ち上がった。

 病室の外には案内をしてくれた看護師が立っていた。


「すみません、もう来ることはないと思います。会わせて頂いてありがとうございました」


 深々と頭を下げた。


「あれ? あの青い人はどこへ行きましたか?」


 看護師は首をかしげた。


「ああ、あの方はやっぱりここは寒いって言って、出ていきましたよ。ポロシャツに半ズボンじゃさすがにねぇ、顔も青かったし」


 そうですか、それだけ言うと彼は病院を後にした。

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