第5話 「正しいことを言うこと」へのおそれ

 私は、この「銀河鉄道の夜」の冒頭部分から、ジョバンニが「知っているのに言えない」のには、もっと深い、もっと表現しにくい理由があると感じるのです。

 「いじめられているのに目立ってしまったらどうしよう?」という以上の、「いま、ここ、ジョバンニという一人の男の子の問題」を超えた「理由」です。

 それが何か、と言われると、よくわかりません。

 たぶん、みんなが「正解」だと納得するような理由はないんだと思います。

 いまの私は、それは「正しいことを言うこと」への、人間の深いところからの「おそれ」だと思っています。

 「正しいことを正しいと言ってしまうことの恥ずかしさ」、「正しいことをこの世に伝えてしまった者が背負わなければならない責任」、そして「その責任を負うことへのためらい」、もっと言えば、「正しいことを正しいと言ったら、もうそれを言うまでの自分には戻れなくなるという恐怖」とでもいうものです。

 銀河の正体は星の集まりだ、と言ってしまう。それは先生も認める「正しいこと」です。

 しかし、その正しいことを言ってしまえば、クラスメイトたちは、もう、その銀河を見上げて「あれは川だ」とか「乳の流れたあとだ」とか思うことができなくなってしまう。

 「正しいことを言う」という行いは、そういう、ほかのみんなの「想像の権利」を取り上げてしまうことにつながるのです。

 そんなことをする資格が自分にあるのか?

 「想像の権利」を否定して「正しいこと」を押しつけるような特別な存在になる資格が自分にあるのか?

 その問いの前にためらってしまった、とでも言うような感覚を、ジョバンニが手を挙げるのをためらう場面から、私は感じるのです。

 そうだと思わないですか?

 思わない、というのも正解だと思います。

 そんな読み解きかたがあってたまるか、と感じたとしても、私は、ごくあたりまえのことだと思います。


 私がそういう解釈をするのは、私が宮沢賢治の生涯を知っているからでしょう。

 賢治はその若い日に「法華経ほけきょうの行者」になりました。日蓮の教えに帰依きえし、法華経の正しさとその教えの豊かさを信じて、青年時代以後の生涯を送りました。信仰に生きるために家出して東京に行っていたこともあります。

 自分の恥ずかしさを抑えて、自分の住む街、みんなが自分を知っている街で「南無妙法蓮華経」と大声で唱えたときのことを手紙に書いてもいます。

 法華経の教えを広めるのが正しいと思っていても、それでもなお、それをみんなの前で口から出すのが、怖い、恥ずかしいという感情を賢治は持っていた。持っているのは賢治だけではないでしょうが、そういう気もちに賢治は自分で気がついていたのです。

 また、賢治が、「正しいことを正しいと言う」ことにどうしてもついてくる、ためらいとか、恐怖感とか、そういう感覚を敏感に強く感じる人だったからこそ、それでも「正しいことを言う」という行いに一生をけた日蓮の教えに強くひかれたのかも知れないとも思います。

 それはいろんな知識を得たあとに初めて感じたことで、国語のテストの問題文で出会ってからそのことに気づくまで長い時間が必要でした。

 しかし、「銀河鉄道の夜」の冒頭の部分は、どうしてジョバンニが黙ってしまうんだろう、という疑問を呼び起こす文章になっている。「いじめられっ子だから」、「目立つとよけいいじめられるから」以上の何かがあるはずだ、と感じさせる文章になっている。何か、もっと深いものがそこに見えるはずだ。そのことを、国語の問題文として出会っただけで感じさせてしまう文章だった。

 そういう、ひとの思いを呼び起こす力をもつ文章だと言うことは、言えます。言えると、私は思います。

 それが、宮沢賢治だけ、「銀河鉄道の夜」だけのものとは私は思いません。

 ひとによっては、賢治の文章がまったく心に引っかからないこともあるでしょうし、賢治の文章には反感しか感じないひともいると思います。でも、そのひとは、別の作家の、別の作品の文章に、同じような感銘を受け、同じように深いものを読み取ることになるかも知れません。

 そういう出会いがなくてもべつにいいと思うのですけど。

 そういう出会いができるのも、ひとが生きているあいだに「読書」することの一つの意味だろうなぁ、とも思うのです。

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