第4話 優しく潰されたおにぎり

 親の死。


 若い人たちにとってこの重い言葉を肌で感じた人は果たしてどれくらいいるのだろう。


 俺は幼い頃、お母さんが病死した。いつも優しい笑顔で俺を抱きしめてくれたお母さんの温もりは今でも忘れずにいる。昔の自分にとって神のような存在であったお母さんの死は俺に多大な影響を与えてくれた。


 寂しさ、不安……


 その時に出会ったのが桐江3姉妹である。この3人と一緒に遊ぶ時はぽっかり空いた俺の心の穴から伝わる寂しさを感じずに済むから、俺たちはずっと一緒だった。


 おままごとをする時も、お医者さんごっこをする時も、俺の部屋で一緒に寝る時も。


 そして、


 あの犯罪者が脅迫してきた時も。


 だが、あの事件が起きてからは、お父さんは俺のことが心配だからと、他の地域に引っ越した。


 俺は桐江3姉妹と離れたくなかったので、泣きながらお父さんに頼んだが、俺の意見が通ることはなかった。


 涙ぐみながら俺たちは別れの挨拶を交わしてしまったのだ。


 時間というものほど残酷で冷酷な存在はない。俺はお父さんと一緒に過ごしながら中学校に行ったり高校に行ったりと、充実した毎日を過ごした。俺が桐江3姉妹に抱いていた感情はだんだんと薄らいで行き、気づいたら、「あ、そんなこともあったよね」と、悲しい思い出の1ページとして捉えるようになった。


 だけど、心のどこかではいつも願っていた。


 3姉妹が幸せな人生を歩めるようにと。


 思索に耽ったのは久しぶりだ。そろそろ起きようか。


 俺の家は広い。なんせ4人家族が暮らす一戸建てだからな。おそらくお父さんは新しい家族を連れて暮らす気だっただろう。だけど、お父さんはお母さんのことが大好きだったらしく、俺の顔を見るたびに、難しい顔をして、お母さんの写真を見たりした。


 他の女性と一緒にいる姿は何度か見たことはあるが、俺に紹介することはなかった。


 俺はお父さんの部屋に入った。


「お父さん……」


 お父さんの部屋にはスーツや筆記用具、古いノートパソコンなどがある。お父さんのための道具や服はいっぱいあるが、肝心なお父さんはここにはいない。


 この世界にはいない。


 1年前にガンで亡くなってしまった。


 俺を心から愛してくれた存在の死というのは、心を締め付けられるほど辛いものだ。扉を開けたら「ん……悠馬、あと5分」とか寝転がりながら言ってきそうなのに……


 ここは


 俺一人だ。


 顔を歪ませて唇を噛み締める俺。


 だけど、


 いつもは悲嘆に暮れているはずなのに、俺の心はある場面を幻灯機のように映し出す.


 二日前の金曜日の夜に桐江3姉妹が俺に見せた笑顔。


 幼い頃、大切な両親を失ったというのに、どうしてあんなに明るく笑えるんだろう。


 やっぱりあの3姉妹はまだ未熟な俺なんかよりずっと大人しく立派である。彼女らの前では俺という人間は小さい。


 だけど、桐江3姉妹を思い浮かべたことで、心の痛みは少しは和らいだ。まあ、これくらいの距離感が丁度いい。


 心の中で密かに彼女らを応援するくらいが性に合う。


 そう思いながら、昨日買っておいた50%引きのシールが貼られたおにぎりを冷蔵庫から取り出していると、


 ポケットの中にある携帯が鳴った。


 一度も見たことのない電話番号。ひょっとして怪しい電話だろうか。


 俺は電話に出た。


「もしもし」

「ゆうちゃん。おはよう」

「っ!愛姉」

「まだ寝ているの?」

「い、いや。起きてるよ」

「そう……」


 電話をかけてきたのは愛姉だった。


「汚したズボン、クリーニング終わったから返したいけど、いつがいい?」


 なるほど、ズボンの件か。


「ん……仕事終わりとか週末あたりがいいかな」

「そう?なら、と仕事終わりに一緒に夜ご飯でもどうかな?久々に会ったわけだし、先日の件もあるから、私が奢るよ」

「いや、別に奢ってくれなくても……むしろ俺に奢らせて!」

「え?なんでゆうちゃんが奢るの?」

「だって……久しぶりだし、元気そうな3人の姿が見れて本当に嬉しかったから、なんだか奢ってやりたくなった!」

「……ゆうちゃん」

「な、なに?」


「やっぱりゆうちゃんはふふっ」


「っ!!!!」


 電話越しでも伝わる艶かしい声は俺の耳に入り、鳥肌を立たせる。


 愛姉は普通に喋ってるだけなのに、俺が過剰に反応しているだけだ。落ち着け。


「二人きりで話がしたいわ。積もる話もたくさんあるし」

「……」

「ゆうちゃん?」

「あ、ああ」

「平日の夜なら大丈夫だよね?」

「うん……」

「詳しい日付と時間はアインで送るわ」

「そ、それでいいよ」

「じゃ、会おうね、

「ああ。また会おう……」

「ふふ、それじゃ」

 

 愛姉はそう言って電話を切った。


 魂が抜き取られるような気持ちだ。冷蔵庫にくっついている小さな窓が俺の姿を写す。


 そこには、心の奥底から湧き上がってくる謎の気持ちを感じながらをしている男が立っていた。


「あ、おにぎり……」


 やっと我に返った俺の手に握られたおにぎりは


 形を変え、潰されていた。






 

 

 

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