208 4月16日(火) 朧月夜の思い出
毎年、春のこの時期になると、思い出すことがある。
昔、京都の円山公園から清水寺への道を歩いたことがあった。
春の朧月夜だった。ちょうど、桜が散って・・そろそろ、青葉の季節になろうかという頃だ。空気はすっかり暖かくなっていて、夜でもちっとも寒くなかった。
当時、円山公園は今のようにライトアップなどはしていなかった。ところどころにある街灯が、円山公園の中を断片的に照らしているだけだった。そんな街灯の中に、ぽつりぽつりと、夜の公園を散策する人影が見えていた。
円山公園の隣は八坂神社だ。八坂神社は東大路に面している。そんなに遅い時刻ではなかったので、東大路にはまだたくさんの車が行きかっていた。円山公園を歩いていると、そんな車の喧騒が生暖かい風に乗って、かすかに聞こえてきた。
静かだった。
僕は『いもぼう』で有名な平野屋の前を通った。平野屋は円山公園の中にある。歴史を感じさせる数寄屋風の建物からオレンジの灯が漏れて・・暗い円山公園の中を照らしていた。
突然、平野屋から歓声と嬌声が沸き起こった。どこかの会社が、新入社員の歓迎会をしているようだった。あるいは、大学生の新歓コンパかもしれない。
僕は円山公園の中をさらに進んだ。有名な『祇園のしだれ桜』の横を通ると・・しだれ桜の花はすっかり散っていて・・若葉の香りがした。
僕は円山公園から高台寺に向かう道に出た。
今は『ねねの道』として知られる通りだ。当時、僕は『ねねの道』という名前などは知らなかった。円山公園を歩いていて・・たまたま、その通りに出たのだ。
僕はその閑静な道を歩いた。右手には京町屋風の家が続いていた。左手は高台寺の白壁だ。
ここを進むと、どこに出るのだろう・・
そんなことも知らずに月明かりの中、僕は歩いた。地図などは持っていなかった。春の宵、この素敵な道を、ただただ何も考えずに歩きたいと思った。
人通りはほとんど無かった。僕の前方を若い女性が歩いているだけだ。
少し歩くと、前方に塔が見えてきた。今にして思えば・・それは、八坂の塔だった。でも、このとき、僕はそんなことも考えなかった。八坂の塔は朧月を背にして、黒くひっそりと佇んでいた。
さらに進むと・・道が坂になった。坂の周りは土産物屋が取り囲んでいる。どの店も戸を閉めていた。
僕は坂を上がっていった。さっき見えていた若い女性の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。もう、僕の周りには誰もいない・・僕の足音だけが春の夜に響いていた。
ふいに、生暖かい空気が僕を包み込んだ。
僕の意識が
朦朧としたまま、僕は歩いた・・
ふいに前方が開けた。清水寺の山門が見えた。清水寺も、今のようにライトアップは、されていなくて・・山門がわずかに街灯に照らされているだけだった。
山門の向こうの夜空に、朧月が浮かんでいた。
生暖かい春の夜。
朧月の明かりの中に、清水の山門が浮かび上がっていた。周囲には誰もいない。静かだった。
なんだか、とても気持ちがよくなってきた。僕はそんな月明かりの中にずっと佇んでいた。
あのとき、僕は朧月に酔ったのかもしれない・・
そんな春の思い出だ。
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