110 2月14日(火) アルカイックスマイルと鬼

 先日、この日記に『とんでもないタクシーの運転手さん』のことを書いた。書いていて・・・当時のことを思い出して、だんだん腹が立ってきたのだ(笑)。そして、同時に、他の『とんでもないタクシーの運転手さん』のことも思い出した。


 それで、同じ話が続いてしまうが・・・今日は、そうして急に思い出した、その他の『とんでもないタクシーの運転手さん』をご紹介しておきたい。


 出張でよく行く、ある地方都市での出来事だ。


 僕は飛行機でによくその都市に行っていた。その地方都市の空港は街外れにある。


 そして、街から空港まで、もともと田んぼと畑しかなかったところに、20年ほど前に新しい道路ができたのだ。片側1車線の道だ。その道路を使って、街から空港まで、車で40分ほどかかる。


 そして、僕は何度もその道路をタクシーで通っているのだが・・・この道路には大きな問題があった。


 周囲には、大きな道路がその道しかない。だから、周りの細い道が全て支線となって、そのメイン道路につながっている。このため、周辺の全ての人が、車でどこかに出かけようとしたら、みんながこの支線を通ってメイン道路に出ないといけないというわけなのだ。しかし、この支線とメイン道路の交差点には信号が全くといっていいぼど無いのだ。しかも、メイン道路が片側1車線しかない。このため、支線からメイン道路に入ろうとすると、メイン道路を走っている車に一時停止してもらうしかないのだ。


 しかしながら、メイン道路は街から空港に向かう車と、逆に空港から街に向かう車がひっきりなしに通っている。当然、みんな急いでいるわけで、わざわざ一時停車して、支線で停車している車をメイン道路に入れてやろうという親切な車は、ほとんど無いのだ。


 このため、僕がタクシーでいつメイン道路を走っても、どの支線にも多くの車が溜まっていて、メイン道路を走る車が一時停止してくれるのを待っているという状況だった。これが、この道路の大きな問題というわけだったのだ。


 さて、その日、僕は仕事が済んで、いつものように飛行機で帰るために、街中でタクシーに乗った。


 空港まで40分として、ちょうど飛行機に間に合う時間だった。


 タクシーが街を離れて、空港へ向かうメイン道路に入ったときだ。さっそく、支線が現われた。支線にはいつものように数台の車が止まっている。


 すると、タクシーの運転手さんが支線の手前で、タクシーを一時停止させたのだ。そして、手で支線の全ての車に、メイン道路に入るように促した。支線の車の運転手たちが喜んだことは言うまでもない。支線の車はタクシーに片手を挙げると、次々に嬉しそうにメイン道路に入っていった。


 タクシーの運転手さんは無言だが、笑顔でそれに答えていた。


 そして、タクシーの運転手さんは、支線のすべての車がメイン道路に入ると、ようやくタクシーを発車させたのだ。


 すると、50mも行かないところに、また支線が現われた。ここにも、数台の車が止まっていた。すると、タクシーの運転手さんが、またもや一時停止して、支線の車を全てメイン道路に入らせたのだ。


 正直、僕は感心してしまった。


 今どき、こんな親切な運転手さんは見たことがない・・・そう言えば、タクシーの運転も実にていねいで親切だ。


 そして、また数10m行くと支線があって、タクシーの運転手さんはまたも一時停止して、支線の全ての車をメイン道路に入らせるのだ。


 こうして、その運転手さんは、全ての支線で一時停止して、止まっている全ての車をメイン道路に入らせていくのだ。


 なんて親切な運転手さんなんだろう・・・


 運転手さんは僕には、全く話しかけてこなかった。僕が後部座席からミラーに映った運転手さんを見ると、運転手さんの口もとにうっすらと微笑が漂っていた。自分の親切な行為に、支線の車がみんなお礼をしていくので、そのお礼に満足している様子だった。


 僕はミラーに映った運転手さんの顔を見ていて・・・昔、学校で習ったアルカイックスマイルを思い出した。アルカイックスマイルというのは、中国六朝りくちょう時代や日本の飛鳥あすか時代の、口もとに微笑を浮かべた仏像の表情のことだ。まさに、僕には、運転手さんが、慈悲深い仏像のように見えたのだ。


 しかし、その一方で・・・僕はここで疑問も感じた。


 一つの支線に止まっている全ての車をメイン道路に侵入させていると、車の数にもよるが・・・どうしても一つの支線で数分は停止することになる。


 これから先も、支線は限りなく現れてくる。すると、こんなことをしていて・・・僕は飛行機に間に合うのだろうか?


 時計を見ると・・・街でタクシーに乗ったときが、ちょうど飛行機に間に合う時間だったのだが・・・もうすでに、飛行機には間に合いそうにない時間だった!


 僕はあわてて、運転手さんに言った。


 「すみません。これでは、飛行機に間に合わないので・・・誠に申し訳ないのですが、急いでいただけませんか?」


 すると、急に運転手さんの態度が変わったのだ。それまで、うっすらと口もとに笑みを浮かべていたのに、みるみる不機嫌になった。運転手さんは、ムッとした険しい顔になって、車のアクセルを乱暴に吹かせたのだ。僕の身体が強く後部座席に押し付けられた。


 僕は運転手さんの急変に度肝を抜かれた。思わず、ミラーを見た。


 ミラーの中の運転手さんの顔は・・・口を一文字にキッと結んで、眉間にしわを寄せていた。運転手さんのさっきまでの慈悲深い仏像の顔が、急に怖い鬼や般若の顔に変わっていた。


 それからタクシーは急に乱暴な運転になったのだ。急ブレーキや急発進で、タクシーは右に左に、前に後に、大きく揺れだした。僕は大きく揺れる車内で、タクシーの壁に両手をついて、身体を支え続けた。そんな、大きく揺れるタクシーの中で、無言の運転手さんと、無言の僕が揺られて行った・・・


 そして、もうタクシーが支線の手前で一時停止することは無かった。


 そんな乱暴な運転のお陰で、僕はなんとか飛行機に間に合ったのだが・・・運転手さんは最後まで無言だった。空港に着いて、僕がお礼を言っても、ムスッとした不機嫌な表情で、無言を貫くのだ。


 僕には運転手さんの急変が、正直、怖かった。


 さっきの、あの一言ひとことで、あんなに急に、運転手さんの顔つきや態度が変わるなんて・・・なんだか、まるで、ホラー映画の中にいるようだった。


 僕は別に、運転手さんが支線に停まっている車に親切にしたことを非難する気などは毛頭ないのだ。親切にすることで、口もとに微笑を浮かべて、自己陶酔に浸ることも個人の自由だ。


 しかし、なのだ・・・親切なのは実にいいことなのだが、時と場合とのバランスを考えて欲しいのだ。


 そして、支線の車に親切にして自己陶酔に浸るのは全く構わないのだが、営業車のタクシーではなく、自分のプライベートな車で出かけたときにして欲しいわけだ。


 さらに言うと、客が「急いでください」と頼んだだけで、態度を急変させないで欲しいのだ。当たり前だが、僕にも飛行機の時間が迫っている。つまり、客にもいろいろと都合とか事情ががあるのだ。


 タクシーというのは営業車なんだから・・・


 読者の皆様にとっては、こんな、たわいのない、愚痴のような話を聞かされても、何がどうなるわけでもないだろうが・・・まあ、こういう、突然、態度が変わる『タクシーの運転手さんの困ったちゃん』もいるので気を付けてください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る