洗われた脳を汚せ

 俺は朱鹮の彫の奥にある、海千山千の場をこなしてきたであろう双眸を見据えた。


「先生。本題なんですが」

「はい」

「先生は、洗脳が可能だと思いますか?」

「洗脳ですか」


 彼はそう呟き、低く唸った。


「マインドコントロールは洗脳に入りませんが、構いませんね?」

「多分……」


 マインドコントロールと洗脳の違いがイマイチ分かっていないが、医者がそう言うのなら別物なのだろう。


「可能、不可能。という話なら、可能というのが正しいでしょう」

「はぁ」

「ただし、そう簡単にはいきませんがね」


 そう前置きして、また彼は解説を始めた。

 そもそも、洗脳という行為は何かしらの強制力によって人の主義思想を、根本的に変えさせることを言う。


「そもそも洗脳という言葉が使われ始めたのは、一九五〇年代。朝鮮戦争に出兵したアメリカ軍兵士が社会主義(共産主義)に傾倒し始めたのが、始まりでした」


 当時の中国共産党(社会主義陣営にて義勇軍として参加していた)が、アメリカ軍捕虜に収容所内で思想改造を施した。

 資本主義と社会主義の代理戦争であったこの戦争では、そんな事が行われていたのだ。

 脳を洗い、我らが信奉する素晴らしい思想を植え付けようじゃないか。

 といった感じの文脈から「洗脳」という単語が誕生した。

 それから、共産党のその方法に目を付けたアメリカが、冷戦下にCIAを中心としたMKウルトラ計画という洗脳計画を立て。

 宗教団体がLSD覚醒剤なんかの薬物を使用して、信者を洗脳状態に置いていた、という事件もあった。


「洗脳という行為は、何処かの誰かが手を付け、どれもこれも一定の結果を出してはいるんです」

「だから可能だと?」

「ええ」

「洗脳に関しては分かりました。……じゃあ、もう一つ質問してもいいですか?」


 そう俺は切り出し、楊と妹の楓林閣でのやり取りで感じた事とそれに関する考察を話した。


「確かに、少々不自然ですね」

「ですよね」

「認知の歪み、というのは、中々いい考察だと思いますよ。……ただ」

「ただ?」

「いささか、抽象的な表現ですね。それに、それなら洗脳というより催眠の方が近いですね」


 ぐうの音も出ない指摘だ。

 照れと恥ずかしさで赤くなった顔を手のひらで冷やしながら、医学的な説明を求める。

 人間が他者の顔を認識するプロセスとしては、まず視覚からの大脳というルートを辿る。

 それから大脳にある領域で記憶と紐づけられたり、表情を理解したりする。

 つまり、その領域が傷付いていたら、人の顔を認識できなくなるのだ。


「なるほど……」

「しかし、貴方達の話を聞く限り、人間の顔を人間の顔として認識しているようですし、CTやMRIで見ても大脳は傷付いていません。その機能があまり働いていないというのが、一番近いのかもしれません」


 脳に損傷を与えず、機能を鈍くされるにはどうしたらいいのか。

 考えてみるが、自分を納得させられる答えはでてきそうそうにない。

 こんな時、素人がいくら考えてもその道のプロには敵わないと、つくづく思い知らされる。


「私個人としては……。脳波が原因だと考えています」

「脳波……」


 俺はもう一度、パソコンの画面を見た。

 剣山もかくやの鋭さを描いた脳波の図。寝ている状態でこれなら、観ている夢は絶対悪夢だ。


「そうですね。脳を一つのコンピュータとして、説明しましょう」


 脳波が激しく動いている状態は、コンピュータで言うところの複雑な計算式を解読しているのと同じだ。

 その時、CPUなんかの部分はその数式を解く為に必死になって電気信号を巡らせている。コンピュータのリソースは計算式解読に多くが割かれる。

 しかし、それと同時並行でカメラを起動し、映った顔と同じ顔が記憶域にあるかどうかを検索したりしたら、どうなるだろうか。

 コンピュータ上で優先事項が計算式を解く事と設定されていたのなら、カメラ等の動作に割かれるリソースは必要最低限いや、動作するギリギリまで削られる。

 そうなれば動作は俗に言う「重い」状態になったり、もしかするとフリーズするかもしれない。


「……なるほど」

「それなら、他人の顔を上手く認知できないのも辻褄が合うわね」


 俺とマリアは、朱鹮の説明で納得した。


「まぁ、仮説の域を出ませんがね。それにこの説が正しいとしても、この異常な脳波を出させている原因も分かっていないと、どうしようもないでしょう」

「……そうですよね」


 目の前にいるのは医者であり、学者じゃない。

 これ以上の成果を望むのは贅沢だ。それに、今までもかなりの助言をくれている。

 けれど、最後に一つ聞きたい事が残っていた。


「先生。……一応聞きますが。この状態で対話を持ち掛けたら、耳を貸すと思いますか? それから、通常の状態に治るものなんですか?」


 この質問の答えによっては、これから取るべき行動も大きく変わってくる。

 黄龍の殺し屋は楊の妹だけじゃない。

 あの症状は妹だけの物じゃないとみてもいいだろう。場合によっては、残酷な選択をせざる負えない状況が訪れるかもしれない。

 俺は腿の上で膝を握り締め、朱鹮の言葉を待った。


「……まず、言っておきましょう」


 彼の声は沈んでいた。


「この状態を見るに、音として感知はしても耳を傾けようという意思は芽生えないでしょうね。と同時に、治る可能性もゼロとは言いませんが、限りなくゼロに近いでしょう」


 それが本当ならば、楊が奇跡でも起こさない限り、奴が自力で彼女の催眠を解くことは不可能という事だ。

 まだ完全に詰んでいないが、かなり苦しい状況だ。

 息を吐いても吸えないような苦しさに、俺は心臓を締め付けられた。

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