医は仁術
そこからはもう、目が回るくらいの忙しさだった。
まず最初に、裁判所でふんぞり返っているジジババを唸らせる、聞くも涙語るも涙の香港兄妹物語を俺の貧弱なボキャブラリーでしたためる。
犯罪を犯すには、それなりの理由がなければならない。
そしてそれが悲劇的ならば、人間、一欠けらでも同情心が生まれるものだ。
今回はそれを利用し、楊の無罪または減刑を狙おうという腹だ。
これこれこういう理由であって、彼は銃を手にしたのです。
決して、利己的な考えで悪い事をしようとしたんじゃありません。
この件に関しては、彼は深く反省しており、我々が抱える事件の解決にも寄与いたしました。
願いましては、この哀れな男の量刑を軽くしては貰えませんか。
という旨の文章――陳謝状を仕上げる。
これを裁判所に提出し、検察官やら裁判官がどうするか判断する。
これで起訴されたらアウトだが、裁判所だってこんな小物に時間を取ろうとは思わないだろう。
これは元から勝算込みの戦いだ。けれど、これは前哨戦に過ぎない。
陳謝状を書き上げたら、次のステップへ向かう。
楊秀紅の独房の空調に睡眠ガスを仕込み、眠らせる。
そこから完全拘束し、病院へ連れていく。
病院までの道中は、黄龍集団による仲間の奪還に備え完全武装、警戒状態を常に保つ。
検査の最中に俺は病院を抜け、裁判所に書類を提出しに行く。
病院に帰るまでは、携帯が震える度に肝を冷やしていた。
メッセージがマリアから送られてこない事を祈りながら、進みが遅い時間を過ごす。
マリアには緊急時以外は連絡するなと伝えてあるので、彼女からの連絡=緊急事態という事になる。
その不安は用事を済ませて病院に戻り、彼女の無事な姿を拝むまで続いた。
「……浩史」
「なんだ」
「なんか、十歳くらい老けてない?」
「気分的には二十歳くらい老けた」
全ての検査が終わり、俺とマリアは医者に診断結果を教えてもらう。
担当医は彫りが深く俺より背が高かったが、不思議と威圧感はなく紳士的な雰囲気を醸し出している。
彼はISSの事情を汲んでくれる、数少ない医者らしいかった。
名札には『
「手早く、結果から申し上げますと、秀紅さんは健康です。脳に外科的手術の痕跡や外傷も見当たりませんでしたし、血液からはISSで使用したと思われる睡眠剤しか検出されませんでした」
彼は英語で書かれたカルテをこちらへ差し出す。
それにはクリップでCTやMRIで撮られた脳の写真や、血液検査の結果が留められている。
「ただ、気になる事がありまして」
「気になる事?」
朱鹮はパソコンを操作し、地震計の記録みたいな波の画像を表示させた。
「これは、秀紅さんの脳波測定の記録です」
俺とマリアは揃って、画面を覗き込む。
脳波をよく観察してみると、針山地獄の様にも、幼稚園児がクレヨンでひっちゃかめっちゃかに書き殴った跡みたいにも見える。
「ガチャガチャしているでしょう」
「ええ」
「秀紅さんは検査時……まぁ、今も寝ていますが。とにかく睡眠状態だった。だとしたら、この脳波は異常なんです」
「と言いますと?」
朱鹮は軽く咳払いをし、解説を始めた。
秀紅の脳波は寝ている人間の脳波とは、少し違っている。
俗に言うとこ、レム睡眠状態であるにも関わらず、脳波の動きが活発過ぎるらしい。
「夢を見ているにもしても、激しすぎる。……ですが、これと似た脳波がある状態の人からでも検出される事があるんですよ」
「ある状態とは?」
「お二方は、『てんかん』と呼ばれる症状をご存じですか?」
「聞いた事はありますけど……」
てんかん。
脳内の細胞に発生する異常な神経活動によっておこる、症状などを指す。
症状は様々で、意識を失ったり、激しい痙攣を引き起こす場合もある。
投薬等で症状を抑えることは出来るが、基本的に治癒は有り得ないらしい。
「その発作時の脳波に、秀紅さんの脳波がそっくりなんですよ。ですが、彼女に抗てんかん薬を服用した痕跡はありませんし、てんかん発作が起きてもいないんですよね?」
後半の問いかけに俺達は首を縦に振った。
「先生。つまり、彼女の脳ミソは、やたらに動いているって認識で合ってますか?」
「はい。そんな認識で間違っていません。ハッキリ言って、異常という他に表しようがありません。こんな症例、私はおろか、他の脳神経外科の医者も初めて見たと言いますよ」
医者が初めて向き合う症例。
絶望という二文字が不意に浮かんできた。
もしかしたら初めてペストや結核を目の当たりにした一般市民も、こんな感情だったのかもしれない。
「……それじゃあ、先生。単刀直入に聞きますよ。治ると思いますか?」
「こちらもハッキリ言いますが“分からない”というのが正直なトコロです」
それもそうだ。
医者が初めて見る症例なのだ。初めて見るなら、治るかどうかも分からないだろう。
「これがてんかんならば治癒は不可能。ですが、新しい何かならば、希望はあります」
希望。
胸が軽くなるお言葉だが、同時に消える寸前の火みたいに儚いものだ。
「……希望、ですか」
そう出た声は、あまり良い印象を抱かさせる物じゃなかったのだろう。
朱鹮は紳士的に微笑み、語りかけてきた。
「ISSの皆さんには、価値の無い言葉かもしれません。しかし、
「不可能を可能、か」
俺は実力でそうしてきた。
けれど、存在すら曖昧な物を信じるしかない人もいるのだ。
(どうすりゃいいんだよ……)
いい歳して泣きそうになりながら、俺は質問をしてみることにした。
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