犬達への挽歌
茶餐廳(チャーチャーンテーン)にて逢いましょう
香港。某所。
雨が降っていた。ひび割れたアスファルトの隙間を埋めるように降り注ぐ雨は、夜になってから激しさを増していた。
近未来的な華やかさと中国随一の大都市の喧騒から切り離されると同時に現代から忘れ去られ、九十年代の雰囲気の色濃く残した繁華街の裏通り。
ただでさえ寂れ気味な通りなのに、この雨のせいで人通りは全く無い。
ただ一人、ビニール傘をさして歩く男を除いて。
チェック柄のネルシャツに、チノパンという地味な服装。
平均より少し整った顔つきをしているが、二十九という歳の割には老けて見える。
その男の名は
彼はチノパンのポケットから湿気を吸ってふやけたメモ用紙を取り出し、それから数歩進んで右側に建つビルを見上げた。
何の変哲もない雑居ビルである。
一階と二階が茶餐廳(軽い飲食が出来る香港ではポピュラーな茶屋)になっていて、彼はその軒下に置かれた沢山の傘が挿してある傘立てに、自分の傘を無造作に突っ込んだ。
「いらっしゃい」
店に入ると、店主が「一人か?」と楊に問うた。
彼は人差し指を立てて頷いた。
傘立ての様子から予想した通り一階は混み合っており、店主は二階へ行けと指示をした。
本当は一階を見て、標的がいるか確認したかったが、怪しまれては元も子もないと楊は素直に従う。
樹脂製のタイルが所々剥げた階段を上がり、フロアをザッと見た時、彼は自分の幸運に感謝した。
標的が数人の仲間と共にボックス席に収まっていたからだ。
飛びかかりたい気持ちを抑え、彼等から少し離れた席に男は座る。
ウエイトレスと呼ぶには歳を取りすぎた店員が、注文を聞きに来る。
楊は温かい茶とゴマ団子を注文した。
ゴマ団子は揚げるのに時間が掛かるが構わないかと聞かれ、彼は構わないと返した。
団子を目的に来たわけではない。
店員が去るのを確認して、楊はベルトに挟んでシャツで隠して携行していたブラジルのタウルス社製のリボルバー拳銃――M85を抜いた。
シリンダーラッチを押し、シリンダーを横に出す。蓮根状のシリンダーの中には、.38sp弾が五つ装填されている。
何度か深呼吸をしてからシリンダーをフレームに戻す。
「……よし」
小さく呟いた楊は銃を握りながら立ち上がり、一歩踏み出そうとした瞬間。
階下から。
「ちょっと! アンタ!」
店主の叫び声が聞こえてきた。彼の意識がそちらに向いてしまう。
気が付くと、標的の前にはレインコートを着たロブヘアの女が立っていた。足元にはレインコートから垂れた水が溜まっている。
彼女はコートに手を突っ込んだかと思えば、黒い何かを引き出した。
彼女が両手に握っているのは、ベレッタ92FSオートマチック拳銃だった。
驚愕する標的とは対称的に、彼女はクランケを前にした脳外科医の様に冷静な顔をしている。
楊の目は彼女の首筋にある痣、右の袖先から覗く黄龍の入れ墨、そして拳銃の順でなぞった。
「助け――」
標的の口がそう動く。だが、容赦なく彼女は引き金を引いた。
連続する炸裂音。一発ごと音が鳴ると同時に、標的の身体が鞭で打たれた様に激しく震える。
その度、楊の心には深いショックと喪失感が湧き上がった。だが、その凶行を止めることは出来なかった。
五秒ほどで十発近くの弾丸を標的へと当てた女は、流れ作業でその周囲にいた標的の仲間達も撃ち殺す。
最後の一人が事切れると共に、彼女の持つ両方のベレッタの弾が切れた。
銃声が響いていた室内は一気に静まり返り、薬莢が床に当たり転がる音と、誰かも知らない荒い呼吸音だけが耳朶を震わせる。
その時、沈黙を引き裂く店員が発した悲鳴により、彼の身体がようやくコントロールが効くようになった。
しかし、それは他の客や店員も同じ事で、最初の悲鳴に続き各ボックスで悲鳴や絶叫が挙がる。
店内にパニックが感染していき、何十人もの人間が我先にと一斉に逃げ出した。
そこに秩序はなく、あるのは生き残ろうとする自分勝手な意識だけ。
若者は老人を、男は女を押し退け、一階への階段や非常階段への扉に殺到する。
そんな中、彼と殺し屋の彼女だけが立っていた。
楊の右肩に誰かの身体がぶつかり、彼は自身が右手に握っていたリボルバーの存在を思い出した。
死体から目を離し悠然とその場を離れようとする女へ、彼は銃を向けた。
「動くなぁっ!」
人に銃を向けるという行為に恐怖しつつも、それを抑え、撃鉄を起こす。
「……話を、聞いてほしい」
震える声で女に声を掛ける。
彼女は彼を一瞥したが、それだけだった。ベレッタのスライドストップを下ろし、元の位置に戻すと銃をホルスターにしまった。
それに反応し、ホッと息を吐いてから、楊もタウルスを下ろす。
しかし、それは女の策だった。自身に向けられた銃口が外れるや否や、彼の方へ走った。
突然の出来事に楊はまた銃を向けることが出来ないまま、彼女に突き飛ばされる。
銃を落としはしなかったが、撃てないまま彼女は彼の背後にあった窓を突き破り、茶屋から逃げてしまった。
「待て!」
急いで割れた窓に駆け寄るが、既に女は闇に消えていた。
「畜生!」
窓枠に残ったガラスで手が切れながら、彼も女と同じ様に窓から飛び降りようとするも。
「手を上げろ!」
振り向けば、拳銃を構えた警察官が彼を捉えていた。
反抗する度胸も技術も無い楊は、為す術もないまま取り押さえられてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます