中国語の男
翌日。
バーンズが住んでいるアパートの前に、俺は車を停める。それから腕時計で時刻を確認する。
午前十一時、十五分前。
「マリア」
助手席に座る相棒に呼び掛けると、彼女は真剣な顔つきでガンケースを手に車を降りた。
彼女には向かい側のビルから、バックアップをしてもらう。
万が一しくじった時の保険だ。
それを見送り、俺と後部座席に座る同僚二人は拳銃のスライドを引いた。
「十一時丁度に突入」
「OK」
デジタル表示を睨んでいると、待機位置に着いたマリアから無線が入った。ボードの上に置いたトランシーバーを手に取る。
『今着いたところ。……バーンズは部屋にいるみたいよ』
「そうか」
『――けど』
「あん?」
『来客がいるわ』
「客?」
無線の声は車内に伝わっているので、同僚達も顔を見合わせる。
『黒スーツの男。東洋人よ』
「日本人? 中国人? それとも、半島系か?」
『分からない。……見分け付かないわ』
「………………」
その客は、多分ブルーガンを買いに来た奴だろう。俺が昨日予想した通りだ。
やはり、馬鹿はこの世界に溢れている。
皮肉かつ苦々しく口を歪め、俺は大きな息を吐いた。ここに来て、厄介な事が起きるとは。
名も知らぬ男を心の中で罵った。
だが、こうしている間にも刻々と時間は過ぎている。時計を見れば十一時まで後五分だった。
「時間だ。部屋の前に移動する」
P226片手に車を降りる。同僚達も同様に、愛銃を握っている。
アパートに入り、なるべく音を立てない様に階段を昇る。
そして、バーンズの部屋の前に着く。
同僚は壁に吸い付く様に待機し、俺だけが扉の前に立った。
十一時になったと同時に、マリアに合図をする。
「突入開始」
この瞬間から、誰が死んでもおかしく無くなった。
俺達はお互いに顔を見合わせ、意を決して扉をノックした。それから、声を張り上げ。
「すいません。不動産会社の者ですが。家賃についてお話があります!」
そう言った。
奴が家賃を滞納している事は、昨日の書類で確認済みだ。金儲けは自身の鬱屈とした感情を払うだけでなく、こんな事もあって考えたのだろう。
室内でガタガタ音がしたと思ったら、如何にも不機嫌そうな男の声が返ってきた。
「……ちょっと待ってろ」
逃げる気なら、容赦なく撃てとマリアとは打合せしてある。
ここは三階。下手に飛び降りようものなら死にかねない。だから、大怪我させてもそれは阻止せねばならないのだ。
男が扉に近づいてくる音に合わせ、俺は数歩後ろに下がった。
チェーンを掛ける音。それから僅かに間が空き、扉が開かれる。
そのタイミングで俺は助走を付け、扉に体当たりした。
巨体がぶつかった衝撃で木製の扉は、勢いよく内側へ開いた。扉側に着いていたチェーンの金具が外れ、カギが掛かっていないのと同じ状態になったからだ。
当然、すぐそばに立っていたバーンズは吹き飛んでいた。
酷く打ち付けたであろう顔面を押さえ、床にのたうち回っていた。
「ISSだ!」
「神妙にしろ!」
「逮捕する!」
俺はバーンズを取り押さえる。彼は俺の顔を見るなり、ヒッとだけ声を漏らし失神してしまった。
向こうからすれば、自身の手を破壊した張本人が、扉も破壊して部屋に入って来たのだ。失神もする。
今度はしっかり手錠をかけ、回復体位で部屋の隅に転がしておく。
「動くな!」
「両手を上げろ!」
顔を上げると、この部屋に招かれていた客人が、仏頂面で俺達を眺めている。
というよりも、観察するような顔が近いか。
極力感情を表に出さないよう、訓練されている様だ。
そのせいで。
聖書を読み上げる聖人にも。
断頭台の前に立つ罪人にも。
善人にも、悪人にも、俺には見えた。
黒一色のスーツがそのどうにでも取れる印象を、加速させている。
「これは警告だ! 撃つぞ!」
「両手を上げろっつってんだろうが!」
同僚達の語気が荒くなっている。俺も立ち上がってシグを構えた。
すると、男が口を開く。
「在死亡面前,你心繫如此平靜」
その言葉を聞いて、ふと親父の葬式を思い出した。別に、男が親父に似ていたとかそんなんではない。
ただ、僧侶が経を読むイメージに被ったのだ。
「お前、何を……」
同僚の一人がそう呟きながら、一歩踏み出した瞬間。
男は口を開け、勢いよく閉じた。歯と歯が当たった時の軽い音が、そこそこ離れていた場所に立つ俺にも聞こえた。
思いがけない行動を取られた事で、虚を突かれる。
「……っ!」
異変はすぐ起こった。男が肩を震わせ始めたのだ。
最初こそ笑っているのかと思ったが、苦悶の声が鼓膜を震わせた。
「やめろ!」
咄嗟に男へ飛びつくも、向こうが先に崩れ落ちる。
もう手遅れだった。男の全身は痙攣し、口から泡を吹き、白目を剥いている。
『浩史、どうしたの?』
腰に提げた無線が鳴る。
「……男が自殺を図った」
激しかった痙攣は段々弱くなっており、顔から生気が消えていった。
『救急車を――』
「――いや」
マリアが言いかけたと同時に、男の首がガックリ落ちる。
「……死んだよ」
謎の男は、本来の目的を忘れるほどに強烈な印象を残して、この世から消えてしまった。
……それが後に大波乱を起こすとは、今の俺には考え付かなかった。
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