お鶴のおんがえし

ゆうとと

お鶴のおんがえし

「……ああ」

 周囲の視線を一切顧みない全力疾走もむなしく、目の前の電車は過ぎ去ってしまった。家族は仕事で出かけているから、授業はサボって家に帰ってしまおう。僕の通う高校は遅刻に厳しいから、下手に遅れるよりも休むと連絡した方が身のためだ。僕のためになるかは、知らないが。

 適当に理由を取り繕って連絡を済ませ、電車に乗って次の駅で降りた。「間違えて入ってしまった」とでも駅員に伝えれば、電車に乗る必要はなかったかもしれないが、見ず知らずの相手に嘘をつくのは憚られた。高校の先生には平気で嘘をつくのに。何だか筋が通っておらず、不恰好な気がしたが、既に脇目もふらずに走った上に電車を逃している以上、もはやそれは些細な問題なのかもしれない。

 妙な見栄を張ったせいで少し長くなった帰り道の街並みは、どこか以前に比べて色を失っているように感じた。あるいは、僕の目が曇ってしまったのか。

 そんな中、公園がふと目についた。古い寺の近くの公園で、小さい頃は時折ここで遊んでいたものだ。あの頃から既に寂れていた寺は未だに誰の手も入っていないようで、風化がさらに進んでいた。外からもよく見えるほど目立つ焼け跡が印象的で、よく記憶に残っている。ずいぶん昔についたものらしいが、特段有名な寺ではなかったから、詳しいことはわからないらしい。

 その寺の方から、子どもがすすり泣くような声が聞こえてきた。公園からでもかなりはっきりと聞こえたが、周りを見回してみても、寺に向かおうとしている人はいなかった。公園の隣の道を通る人々は、子どもの声など聞こえていないように素通りしてゆく。きっと皆、自分のことで精一杯なのだ。この場にいる人々の中で、人に差し伸べる手が空いているのは、僕しかいないようだった。もっとも、僕も本来抱えるべきだったものを手放したから手が空いているにすぎないのだが。

 寺の入り口に向かうと、小さな女の子が泣いているのが見えた。おそらく、あの子が声の主だろう。足の上に平たい石のようなものが乗っており、動けなくなっているようだった。石をどかして助けると、女の子は足を押さえながらゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫? 怪我はしてない?」

「うん……ありがとう、お兄ちゃん」

 女の子に笑顔が戻り、少し安心した。周囲の視線が少しこちらに集まっているのを感じたので慌てて立ち去ろうとしたが、女の子に袖をぐっと引っ張られた。子どもにしては妙に力が強く、思わず数歩後ろに下がってしまった。

「お兄ちゃん、私、お礼がしたいの。お寺に来てくれない?」

「え……」

「だめ?」

「……それじゃあ、せっかくだから」

 周囲の目はかなり気になったが、ここで女の子の好意を無下にするのも良くないと思い、彼女の言葉に甘えることにした。僕の返事を聞くと、女の子は嬉しそうに笑みを浮かべ、掴んだままの袖をぐいぐいと引っ張って寺の中に入っていった。

「私、お鶴って言うの。よろしくね」

「お鶴……」

 ずいぶん古風な名前をしていたので驚いたが、寺の娘であればそういうこともあるのかもしれない。ともかく僕も早く人目から逃れたかったので、足早に境内へ、そして建物の中へと入っていった。

 お鶴は僕を空いている部屋に案内した後、この部屋から絶対に出ないで待っててね、と言い残し、すぐに奥の方に入っていってしまった。言われた通りにしばらく待っていると、お鶴はその身体よりも幅のある大きな鍋を持って部屋に戻ってきた。それだけではないらしく、せっせと部屋を出入りして、大きな皿に盛り付けられた豪華な料理を運び込んだ。

「はい、召し上がれ!」

「これは……!?」

 目の前で起こった、さながらおとぎ話のような出来事に困惑する。お鶴は先ほどと同じ笑顔で、僕の問いかけに答えた。

「お肉と、お魚!」

「それはそうだろうけど……」

 僕が不思議に思っているところが伝わっていなかったらしいので、別の言葉で言い直そうとした時、思わず見落としていた点に気が付いた。

「って、肉とか食べても良いの? ここ、寺だけど……」

「だめなの?」

 お鶴は全く理解ができない、という様子で首をかしげた。仏教について詳しいわけではないが、肉を食べることが良しとされていないことぐらいは僕にもわかる。勝手にそうだと思い込んでいたが、お鶴はこの寺の娘ではないのだろうか。

「だって君、寺の娘なんじゃないの?」

「……あー……」

 お鶴は生返事をしてから、少し間を置いて答えた。

「平気だよ!」

「そうなんだ……」

「確かに私は寺の娘だけど、仏様を信じてはいないから。お父さんも、お母さんもそうなの。だから、肉も魚も好きに食べてもいいのよ!」

 お鶴の言葉を聞いて、少しどきっとした。そういえば、この寺には彼女の両親がいるのだろうか。そうだとすれば、僕は早く帰った方が良いのではないだろうか。そんな考えが脳裏をよぎり、急に心配になった。

「その……お鶴ちゃんの両親って、この寺にいるの?」

「いないよ?」

「え?」

 答えを聞いて、いきなり嫌なことを聞いてしまったかと思ったが、お鶴は全く平気そうだった。

「そろそろお料理が冷めちゃうから、食べて食べて!」

「あっ、ごめん。それじゃあ、いただきます……」

 お鶴に促されて料理を口に運ぶ。子どもの作ったものとは思えないほど美味しい。ほんの一瞬、独特な風味を感じたが、飲み込む頃にはなくなっていた。

「どう? うまい?」

「……うん、美味いよ!」

「本当!? 嬉しい!」

「これ、お鶴ちゃんが作ったの?」

「そうよ、私が材料から採ってきてるの!」

「材料から!?」

 晴れやかな笑顔をしたままお鶴が言い放った言葉に驚いて、思わず声を上げてしまった。他に人がいる気配がないとはいえ、仮にも寺なのだから静かにしているべきだ。一息ついて、座り直す。

「ごめんね、驚いてつい……」

「いいのよ、お寺には私たちしかいないから、好きに過ごして」

「それにしても、材料から……」

「私ね、とにかくうまいものを食べたいの! だからこうして、いつも研究してるのよ!」

 お鶴の発言は、その見た目から推定できる年代のそれとはかけ離れていた。いくら幼くても相手は女の子だから年齢を聞くのは気が引けたが、本当に見た目通りの年齢なのか、少し疑わしく思うほどだった。

「えらいね、本当に……」

「まだまだよ、これからもっとうまくなるんだから!」

 お鶴は胸を張ってそう言った。僕が料理を平らげた後、彼女は寺に泊まっていかないかと提案した。突然の誘いで少したじろいだが、今日は家に帰っても家族はいないし、戸締まりもちゃんとしている。少しぐらい家を空けても大丈夫だと思った。僕が承諾すると、お鶴は笑顔で布団の支度を始めた。

 寝る支度を済ませて布団に入ると、急に眠気が襲ってきた。今日は色々なことがあって疲れていたのだろう。

 とんとん、からり。とんとん、からり。目を閉じて真っ暗になった世界の中で、聞き慣れないその音だけが響いている。お鶴はまだ何かしているのだろうか。

 とんとん、からり。とんとん、からり。少しだけ音が近くなった気がした。少し不安になったが、不思議と目を開ける気は起きなかった。

「これからきっと、もっとうまくなる……」

 お鶴の声が微かに聞こえてきて、感じていた不安が立ち消えた。やはり、何か作業をしていたのだ。安心するとともに、再び身体が重くなり、力が抜けるのを感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 翌日になって目を覚ますと、既にお鶴は食事の用意を済ませていた。朝食なので量は控えめだが、丁寧に作られていた。身支度をして寺を出る時、お鶴は笑顔で見送ってくれた。

「よかったら、また来てね! いつでも待ってるわ!」

「うん、ありがとう!」

 久しぶりにしっかり休んだからか、身体の調子が良い。家に教科書を取りに行く必要があったが、全く苦には感じなかった。しばらくテストもないから、学校に全て置いていってしまおう。

 高校に着くと、友人が話しかけてくれた。どこかほっとしているような様子だった。余計な心配をかけてしまっただろうか。

「お前、なんで昨日来なかったんだよ」

「ちょっと電車に乗り遅れちゃってさ、そのままサボっちゃった」

「ったく……ほら、ノート見せてやるよ」

「悪い悪い、今度ご飯でも奢ってやるから」

 友人は何だか僕の方をじろじろと見ているようだった。何かおかしいかと聞くと、少し訝しむように彼は問うてきた。

「なあ……なんかお前痩せた?」

「そう?」

「いや、気のせいかもしれねえわ」

「何なんだよ」

 先ほどまでの神妙な面持ちはどこへ行ったのやら、彼はすんなりと僕の変化を探るのを諦めてしまった。実際のところ、変化があるのかどうかは僕にさえわからないのだが。

 放課後になって友人と別れてから再び寺に立ち寄った。昨日起こった出来事を未だに信じられずにいた。それに、あんなに幼い女の子がずっと一人で家にいるというのも、お節介だが心配な話だ。これからは、学校帰りにお鶴の顔を見に行くことにしよう。

 寺の近くまで来ると、お鶴は門の前に立って僕を出迎えてくれた。まるで僕が寺に来ることを知っていたかのように。

「嬉しい! また来てくれたのね!」

「どうして僕が来るって分かったの?」

「外の掃除をしていたら、お兄ちゃんが来てるのが見えたから!」

 お鶴は元気いっぱいにそう答えた。今日はこれで帰るつもりだったが、お鶴に促されてまた寺の中にまで入ってきてしまった。

 お鶴の用意してくれた食事は昨日よりも豪華で、思わず少しくらりとした。無意識に遠慮してしまっているのか、あまりたくさん食べられなかった。残った分はお鶴が美味そうに平らげていた。

「ごちそうさまでした。ごめんね、ちょっと豪華すぎて遠慮してしまったかも……」

「そうなの……美味かった?」

「もちろん!」

「それなら良かったわ! まだまだ、もっと美味くなりそう!」

 昨日は気にならなかったが、お鶴の言葉遣いに少しだけ引っかかりを覚えた。これぐらいの年代の女の子が、「美味しい」ではなく「美味い」と言っているのを聞いたことがなかった。しかし、わざわざお鶴に聞いてみるほどのことでもない。思い返してみれば、僕もお鶴ぐらいの頃は変わった言葉遣いをして遊んでいたことがあった。これも、そういう遊びの一環なのだろう。

 寝る前に、お鶴は絶対に部屋を出ないようにと言った。本当に、まるでおとぎ話のようだ。だからこそ、僕はお鶴の言うことは必ず聞こうと思った。その言葉に逆らうことで訪れる結末を、知っているから。

 とんとん、からり。とんとん、からり。今日も、あの奇妙な音が聞こえてくる。音はまた少しずつ近づいてきて、何だか不安になった。

「きっと、もっとうまくなる……」

 お鶴の声が聞こえてきた時、音はもう聞こえなくなっていた。少し不思議に思いながらも、そのまま眠りについて朝を迎えた。

 昨日と同じように、お鶴はまた来てねという言葉とともに笑顔で見送ってくれた。しかも、夕方まで学校に行っているのならと弁当まで持たせてくれた。僕はお鶴に礼を言って、そこから一歩進んだところでつまずいてしまった。

「だ、大丈夫!?」

 お鶴が慌てて駆け寄ってくれたが、特に怪我はしていない。それを見て、お鶴も安心したようだった。

「よかった、お兄ちゃんが怪我しちゃったら大変だから……」

「大袈裟だなあ、大丈夫だよ」

「だって、ほんとに嫌なんだもん!」

 お鶴は気をつけてよ、と付け加え、送り出してくれた。教科書は学校に置いてあるが、着替えるために一度家に戻った。

 シャワーを浴びた後で鏡を見ると、確かに少し痩せているように見える。痩せこけているようではなく、健康的な体型の範囲に収まっているが、寺にいた時は普段より多くの量を食べていたから少し気になった。しかし、時間があまりなかったので、そのまま着替えて学校へ向かった。

 高校に着いて授業を受けていると、妙に先生やクラスメイトの言葉に意識が向いた。いつもは教科書を読み進めて聞き流しているような話が、よく耳に入ってくる。

「えー、このように、ある物質が生物に食べられ、その生物が別の生物に食べられ……というのを繰り返すことで、体内の物質の濃度が上がってゆくことを生物濃縮と言います。公害で海に流れ出た物質が魚を通して人間の体内に入った……というのは、生物濃縮に関する有名な事件ですね」

「せっかくなら、うまみ成分とかだけが濃くなってほしいなあ」

「あはははっ!」

 いつの間にか色を失っていた日常が、徐々に色を取り戻してゆく。お鶴のもとで過ごし、久々に美味しい料理を食べたからだろうか。

 昼になって、お鶴が持たせてくれた弁当箱を開けた。冷めているかと思ったが、不思議と温かかった。包みや箱に工夫があるのだろうか。寺に行った時に聞いてみようと思ったが、お鶴はこういう問いには答えてくれないかもしれない。

 そう思った時、お鶴には秘密を好みがちなところがあると気が付いた。彼女が料理を作っているところも、他の作業をしているところも見たことがないし、そもそも彼女が何者なのかもよく分かってはいない。だが、自分がお鶴と同じぐらいの年頃だった頃を思い返してみれば、隠し事が好きな女の子は少なくなかった。お鶴はかなりしっかりしているからつい違和感を覚えたが、そう特別なことではないのだろう。

 授業が終わった後、学校の近くのレストランに友人と一緒に寄った。奢る約束をしていたし、毎日お鶴のもとを訪れることにしたものの、その度に食事を作ってもらうというのは申し訳ないと思ったからだ。

「悪いな、本当に奢ってくれるとは思わなかった。一番高いやつ頼むわ」

「勘弁してくれよ……」

 友人は意気揚々と店員の呼び出しボタンを押した。いつもは優柔不断なのに、今日だけは即決だ。僕もふと目についたセットメニューを同時に注文し、払う分のお金をさっさと用意した。

 しばらくして、料理が出された。付け合わせの野菜を食べた瞬間、何か強烈な違和感のようなものを覚えた。見た目にも、味にも、おかしなところは何もない。しかし、身体がそれ以上食べるのを拒絶しているのを感じた。

「がっ、ぐう……!」

「おい、大丈夫か!?」

「あ……ああ、大丈夫だよ。ちょっと気管に入っちゃったかな」

「気管に入ったような感じじゃなかったけどな……」

 友人は心配そうにこちらを見る。適当に誤魔化そうとしたが、この状態で完食するのはとても無理だ。食べる時、得体の知れない違和感を覚えたことを正直に話した。

「違和感……アレルギーとかか?」

「わからない……何にしても、これ以上食べるのは難しい。野菜以外は箸つけてないから、良かったら食べてくれ」

「わ、分かった……」

 レストランを出て友人と別れた後、寺に向かった。結局食事は取れなかった上に、体調も良くない。そんな状態でお鶴に会うべきではないと思ったが、家に帰る気にもなれなかった。

 寺に着く頃にはもう陽が落ちて暗くなっていたのに、お鶴は門の前で僕を待っていた。ずっとここで待っていたのだろうか。もしかしたら、とても悪いことをしてしまったかもしれない。

「お鶴ちゃん!」

「また来てくれたのね!」

「もしかして、ずっと待ってた?」

「ううん、心配しなくてもいいのよ!」

 お鶴は嬉しそうに僕の手を引いて、寺の中に連れて来た。食事も用意していたらしく、すぐに料理を出してくれた。

 さっきまで野菜を少し食べることすらできなかったのが信じられないほど、お鶴の料理は簡単に食べられた。しかし、食べ終えると同時に疲労感が襲いかかり、そのまま眠りについてしまった。

 とんとん、からり。とんとんとん、からり。音が聞こえて目を覚ます。いつの間にか、深夜になっていたようだ。

 ふと机の上に目を向けると、本のようなものが置いてあった。昨日までは何も置いていなかったから、恐らく今日お鶴が置いたものだろう。少し興味が湧いたが、身体の疲れがまだ残っていて、起き上がることもできなかった。

「もう少しだから、がまん、がまん」

 再び眠りにつこうとした時、お鶴の声が昨日よりもさらにはっきりと聞こえてきた。僕が寺に来た頃から行っているらしい作業が終わりそうなのだろうか。彼女は毎晩、一体何をしているのだろう。

 翌日、いつものように高校へ向かう電車に乗ると、これまで感じたことのないような強い視線を周囲から感じた。道化を見るような嘲笑、行き倒れた弱者を見るような軽蔑、そして、異形の何かを見るような恐怖。その視線の中に入り混じる様々なものが、直接身体に突き刺さっているように感じた。

 この数日で、感覚が驚くほど鋭敏になっている。これまで感じなかったものを無意識に拾い上げてしまうせいで、授業の内容もほとんど頭に入ってこなかった。

「この時、廃仏毀釈という運動が盛んになって、多くの寺は廃れてしまい……」

 授業が終わると、心配そうな顔をした友人が声をかけてきた。雑音に溢れる中で、その声を何とか見つけ出す。

「おい、最近どうしたんだよ。何か変だぞ?」

「……変?」

「ああ、見るからに痩せこけてるし、昨日も飯食えなかっただろ? 何か悪いものでも食ったんじゃ……」

 その言葉を聞いた瞬間、急速に頭に血が上ってくるのを感じた。衝動に抗えないまま、拳を握って声を上げる。

「そんなわけないだろ!」

「!」

 友人は驚いた顔をしている。周囲の雑音も止まり、代わりに凍りつくような冷たい視線が一斉にこちらを刺す。だが、それでも止まることはできなかった。

「悪いものなんか全く食べてない! お鶴の料理は……そんなものじゃない!」

「お鶴……?」

「……」

 怪訝そうな表情の友人を残したまま、逃げるように駆け出して学校を出た。鞄は置いたままだったから、お鶴が作ってくれた弁当も学校に置き去りにしてしまった。

 冷たい視線から逃れて電車に乗り、ふらふらと寺に帰ってきた。お鶴の姿は見えなかったが、自宅まで行く気力もなかったので、少し休ませてもらおうと思った。

 部屋に入り、昨晩机の上に置いてあった本を手に取った。かなり年季が入っているようで、隅が破れているページもいくつかあった。

『毎日、その日のことを紙に書けと言われた。人間は……てしまう生き物だけれど、……に残せばその日の出来事を……ことができるからって。そんなに……必要があるのかな。それに、私はまだ小さい頃のことも……ているのに』

 日付や一部の文字が掠れて読めなかったが、日記のようだった。年代からしてお鶴のものとは思えないから、彼女の先祖のものなのかもしれない。良いことではないと思いながらも、気付けば次のページをめくってしまっていた。

『今日はたくさんの……とお話をした。……』

「お兄ちゃん、来てたの?」

 読んでいたところで、後ろから急に声をかけられた。慌てて日記を手にして振り返ると、お鶴が立っていた。幸い、日記を読んでいることに気付いていない様子だった。

「ああ……声かけようと思ったんだけど、姿が見当たらなかったから……」

「良いのよ、来てくれて嬉しいわ!」

 お鶴は笑顔でそう言った後、食事の準備をしなきゃ、と呟いて部屋を出た。とんとん、というお鶴の足音が離れてゆくのを聞いて、ほっと息をついた。今は日記をこれ以上読むべきではない気がして、そっと机の上に戻した。

 しばらくして、お鶴は早めの昼食を出してくれた。僕の体調が良くないのを見通しているかのように、身体に優しい料理ばかりが並んでいた。

「ありがとう、最近具合が良くないみたいだから……」

「本当!? 平気なの?」

「うん、周りから最近そう言われることが多くて……」

 お鶴は不安げな様子だったが、隠すのも忍びないので、正直に打ち明ける。

「そうなの……」

 お鶴はその時何か呟いたようだったが、聞き取ることができなかった。その後、お兄ちゃんがよかったら、と前置きしながら話した。

「お兄ちゃんも、このお寺に住まない? もしお兄ちゃんがよそで倒れちゃったら、私にはどうすることもできないから……」

「……」

 お鶴の提案は、とても重大な気がした。だからこそ、彼女の決意のようなものを強く感じた。僕はその言葉に頷いた。頷かざるを得なかった、と言った方が正しいのかもしれない。

 僕が頷いたのを見て、お鶴は飛び上がって喜んだ。それまで子どもらしいところをあまり見ていなかったから、少し驚いた。

 既に承諾してしまったものの、果たして僕は寺に住むことができるのだろうか。親は仕事でほとんど家を開けているとはいえ、帰ってきたら異変に気付くだろう。そうなったら、どうすれば良いのだろうか。

 ともすれば、僕は取り返しのつかない決断をしてしまったのかもしれない。突如湧き出てきた不安に圧し潰されるように瞼が落ち、それ以上意識を保てなかった。

 とんとん、からり。とんとん、からり。音が聞こえて目を覚ます。いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。かなり長い間寝ていたが、身体の疲れは取れていない。身体も妙に重く、すぐに再び眠りについた。

「あとは仕上げをしたらできあがり。お兄ちゃん、どんな顔するかなあ」

 瞼の中まで陽の光が差し込んで来て目を覚ます。お鶴は既にどこかに出かけているようだった。寝坊してしまったのだろうか。慌てて起きあがろうとするが、体勢をうまく保てずに倒れ込んでしまった。

「!?」

 少しの間、自分の身に起きたことが信じられなかった。寝起きで身体が上手く動かないというだけでは説明がつかないほど、僕の身体はふらふらだった。立った瞬間、宙に投げ出されたように突然身体をどう動かせば良いのか分からなくなったのだ。何かが明らかにおかしい。けれど、何がおかしいのか気付けない。得体の知れない不安感を覚え、一筋の汗が身を伝う。

 身体が上手く動かない以上、お鶴の帰りを待って相談するより他にない。這うようにして机の近くまで行き、待っている間に全て読んでしまおうと、昨日読んでいた手記を手に取った。

 続きのページを見ると、百年以上も前の日付が書いてあった。やはり、お鶴の先祖のものらしい。

『今日は参拝客が少なかった。来た人たちも、皆すぐに帰っていった。お鶴ちゃんにお別れを言いに来たんだよ、とだけ言って、皆去っていった。よく分からなかったけれど、何だかとても寂しかった』

「……え?」

 これまでのページは文字が掠れていて読めない部分があったが、このページ以降ははっきりと文字が残っていた。だが、それよりも気になったのは、お鶴の名前が日記の中に出てきていたことだ。部屋の中の空気が急に重くなったように感じたが、構わずページをめくった。

『お寺が知らない人達に壊された。建物の奥にしまっていたものも燃やされた。ハイブツキシャクだ、って。私にはよくわからない。私たちは、これからどうやって暮らしたら良いんだろう』

 とんとん、からり。とんとん、からり。いつもは夜に聞こえていた音が、突如聞こえてきた。お鶴が帰ってきたのだろうか。

 もしもこの日記を書いたのがお鶴だったとしたら、彼女は一体何者なのだろう。そして、彼女がただの少女ではないのを僕が知ってしまったとお鶴に悟られれば、何が起こるかわかったものではない。だが、何故か日記を隠そうとすることなく先を読み進めてしまっている。

『たくさん我慢して質素な暮らしをしていたのに、仏様は結局救ってくれなかった。もう一度、やり直したい。もう一度やり直せたら、思い切り贅沢な暮らしをしよう。美味いものを、たくさん食べよう』

「……!」

 日記はそこで終わっていた。読み終えた途端、一気に様々な言葉が脳裏をよぎる。廃仏毀釈、親のいない少女、彼女の願い、彼女を挟んでいた石、そして、今も聞こえてくるあの音……

 とんとんとん、からり。とんとんとん、からり。音が段々近くなってくる。それとともに、頭の中に浮かんでいた言葉が次々と結びつき、一つの物語を成してゆく。物語を織るにつれ、恐怖が襲いかかる。

 きっと、お鶴は今を生きる人間ではない。もとは時代の流れに抵抗する術もなく消えた寺の娘だ。それが、仏に対する怨みを抱える怨霊となったのだろう。

 美味いものを食べる。それが、お鶴のしたいことだと言っていた。こうして僕を招いたということは、怨霊となった今は人間を食べているのだろう。恐ろしいことだが、そうだと考える他にない。

 とんとんとんとん、からり。とんとんとんとん、からり。音がどんどん近づいてくる。逃げようとしても、身体は弱って言うことを聞かない。ただ、もがくように思考を続けることしかできないのだ。

 不思議なのは、お鶴の料理だ。僕を食べる気ならばここまで生かしておく理由はないはずだし、もちろん豪華な料理を食べさせる必要もなかった。そもそも、幼い彼女があれだけの料理を作れるとは考えにくい。

『せっかくなら、うまみ成分とかだけが濃くなってほしいなあ』

 その時、クラスメイトの言葉が咄嗟に思い浮かんだ。霊にとっての旨味や栄養が、もしも怨みや絶望だったなら。

 それならば、彼女が自ら採ってきたという食材の正体は————————

「うああああああああッッ!!」

 叫びながら走り出す。身体はまともに動かないが、それでも何とか逃げ出そうと力を振り絞る。

 お鶴がどこまで動けるかはわからない。だが、寺の外まで出られないようだったら、逃げ切れる可能性はある。お兄ちゃん、お兄ちゃん、と呼ぶ声に構わず、建物を出て必死に石畳の階段を駆け降りる。半ば突き破るようにして門を開け、寺の外に出ると、僕は再び客間の真ん中に立っていた。

「……え」

 その時、僕は解きそびれていた一つの謎の答えを得た。恐らく、お鶴は料理を作っていたのではない。ただ、僕に幻を見せる力を彼女は持っていたのだ。

 絶望で力が抜ける中、さらに音が迫ってくる。今までで一番はっきりと————————足音と、障子を開ける音が聞こえた。

 とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん。

 からり。

「ずいぶん、美味くなったなあ」

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