さようなら ルーザー
紫鳥コウ
1
拓也は拳を振り上げると、父の耳を殴った。父は左耳を押さえてうずくまった。もちろん、怒りがこみあげてきた。拓也の腕をつかんで畳の上に叩きつけると、馬乗りになって何発も張り手を喰らわした。右を叩けば首は右にねじれて、左を撲てば左の方へはね返った。拓也も負けるまいと、両手を握りしめて胸や首や顎の下を打った。
このとっくみあいは、大勢の手によってすぐに解かれたはずであったのに、ふたりには十分くらい打ちあったような気がしていた。
どちらかが悪いというわけではない。どちらともが自分のことを悪いと思っているだけなのだ。自分の姉を、自分の子を、死に追いやったのは紛れもない自分だと信じきっていた。法で裁かれることはなく、よって刑罰もないものだから、みずから自分自身を苦しめることでしか、罪をつぐなうことができない。
しかし拓也は、自分より重い罪を負っているのが父だという確信があった。だから、姉の遺体が横たわる仏間で、父を殴った。一方で、拓也に殴り返すことによって、父もこらえきれない怒りをぶつけた。
窓の外では雪がしんしんと降っていて、こぢんまりとした庭の傾いた石灯籠や、苔のなかの飛び石が、白々としはじめていた。ねずみ色の空の下では、電灯に照らされたこの仏間だけが色鮮やかに見えた。そのことだけが、眠りにつく死人のせめてもの救いだった。
こうした外の景色をぼんやり眺めながら、梨沙が家をでていった日のことを思いだしていたのは、もう八十になるこの家のおばあさんだった。
○ ○ ○
梨沙が進学校に合格した日、おばあさんは仏壇の前で手を合わせていた。試験の当日もそうだった。入試が近づくにつれて、不安とストレスを募らせていく梨沙に、「右肩にはおじいさん、左肩にはおかあさん、頭の上には他の先祖のみんながついているからね」と言って励ました。
そんなもの、なんの気休めにもならない、もっと具体的なアドバイスがほしい。それも、学校の先生や、偉い心理学者のひとの、すぐにでも使えて、受験のために役に立つ言葉がほしい――なんて、梨沙は思わなかった。
「うん、ありがとう。そうだね、みんながついていれば大丈夫。きっと、大丈夫」
「そうそう、大丈夫。おかあさんは頭がよかったから、分からないところを教えてくれるし、おじいさんは、兵隊さんのころに崖からすべり落ちても、ぴんぴんしていたし……」
「それ、何回も聞いたよ」
梨沙は、笑ってみせた。強がってみせた。泣きそうだったから、話を変えた。
「おばあちゃん。拓也が帰ってきたら、おかずを温めてあげてくれる? あと、お味噌汁も温めなおしてくれると……」
「うんうん。分かったよ。本当なら、わたしが作らないといけないんだけど……」
「しかたないよ。お薬、ちゃんと飲んでから寝てね。勉強が終わったら、皿洗いとか後片付けをしておくから、そのままにしといてね」
大事な時期の孫に、年相応ではない、あまりにも重い負担をおわせてしまっているということは、おばあさんが一番よく分かっていた。台所で梨沙が皿洗いをしている音で、いつも眼がさめる。それでも、薬を飲んだあとは、まったく身体が動いてくれない。はやく音が止みますようにと願いながら、気づかないうちに涙を流している。
拓也は少年野球のチームに入っていて、将来はプロ野球選手になって、新卒一年目でホームラン王になって、二年目には大リーグに行くと豪語している。夢をもつ孫を、応援してあげたい。けれど、梨沙の手伝いもしてあげてほしい。そう思ってしまう。
しかし、なににもまして自分がゆるせない。孫に家事をさせて、一日のほとんどをベッドの上で過ごしていることが、みじめに思えてしまう。
もともと共働きの家庭で、まだ健康なときはおばあさんが家事をして、ふたりの孫は自由に遊ぶことができていた。けれど、おじいさんが死んで、その半年後には、ふたりの孫の母までいなくなった。
仏間に横たわった母を見て、泣いていないのは梨沙だけだった。まだ中学二年生になったばかりなのに、自分がしっかりしなければいけないのだと、もうわかっていたのだ。
もちろん、だれもいないところで泣いていたし、優しい色が顔から消えてしまった母を見て、なんとも思わないわけがなかった。それでも、ひとり転勤を繰り返して滅多に帰ってこない父のかわりに、自分にできることは、すべて引き受けた。記憶のなかの母を、こころのなかに宿させて。
あの日、おばあさんは、ひとり息子が自分の部屋にきて、子供のときのように泣きじゃくったのを見て、おのずと涙を流してしまった。ふたりの子を立派に育てるために、いままで以上に働くから、家のことを頼んだと言って嗚咽している息子の肩を、しわくちゃの手で一生懸命にさすった。
親戚や隣近所のひとたちも、おばあさんを病院に連れていったり、畑でとれた野菜をくれたり、家族旅行についでに呼んでくれようとしたりした。しかし、彼ら彼女らにもまた、それぞれの家庭があり、ほかにも同情をしなければならない相手がいる。つきっきりで面倒をみてくれたわけではない。
おばあさんは、ある夏の夕暮れ、夕立が走りそうな気配を感じながら、ベッドの上で、ふと思ったことがある――自分が死んだら、孫たちは楽になるのかもしれない。
そしてそれは、もっと具体的な問いへと進んでいった――いつ頃に死ねば、ほかの家族に迷惑をかけないだろうか。
その日、雨が降ることはなかった。夜になると、台所のほうから皿を洗う音が、かすかに聞こえてきた。
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