魍魎祓いの恋と鬱

夜船

第1話 嫁入りは突然に


娘は我武者羅に走っていた。

肺が限界を訴えても荒い呼吸のせいで乾いた喉から血の味がしても、ひたすらに両脚を動かし腕を振り年若い娘とは思えぬ恥を捨てた必死さでもって。


生死が掛かっていたら恥入る暇もない、死ぬくらいなら恥など捨てる。猛然と駆け抜け、風と一体となった髪をなびかせて娘は走る。後ろからは怒鳴り声が追ってくる。



「逃げるな腰抜けが!!観念して嫁へ行け!!!」


嗄れた大声で叫ぶ老人の怒声に、前を向いたまま娘は


「逃げるわ!!!誰が行くかアホーッ!!」


と叫び返しながら全速力で走って逃げた。








呼吸というのは、全力疾走しながら長時間するものではない。

肺が死ぬ、おそらく肺の細胞が何割か死んだ。喉が裂けたに違いないやたら痛い。実際のところそんな訳は無かったが、そう感じながら娘は地面に横座りのままゼイゼイ荒い呼吸を整えていた。


振り切って逃げおおせたと思ったら、なんと追っ手に先廻りされていた。走り疲れてへたり込み、動けなくなった所を縄で腕ごと胴体をぐるぐる巻きにされてしまった。


これではまるで罪人だ、いつの時代の捕物だ。

いや、今の娘が置かれた状況下では奴隷商に売られる貧民と云った方が近いかもしれない。老人は捕獲した娘を立たせると嬉々として縄を引いて歩き出した。


「さ!まりっじぶるぅはその辺にして輿入れするぞ!良かったなこれで食いっぱぐれる事ぁねぇぞ」


「食いっぱぐれる心配がなくても死ぬ心配があるんですけど!!無職で餓死か魍魎に殺されるかしか選択肢ないのおかしくない!?生きる方を選ばせてよ!!何でどっちも死ぬ道しかないのねえおかしいって!」


「何言ってんだ死ぬと決まった訳じゃねぇお前次第だ、魍魎を退治すりゃいいだけの話だ」


「出来る訳ないじゃないバカじゃないの?!」


「お前なら出来る!もし出来なけりゃ喰われて終わりだな!」


おそろしい事を明るく言い放って、何が面白いのか豪快な笑い声を上げる。逃がす気はなく、魍魎退治もすべて自分に丸投げするつもりらしい。老齢とは思えぬほど力強く縄を引く老人の腕は容赦なく自身の体を引きずっていく。


「い、いやぁーっ助けてーッ!!」


娘の助けを求める声は、人気の少ない山道の木々にただ吸い込まれて消えていくだけだった。

退治すればいい、と事も無げに無茶振りされた魍魎という存在を脳裏に浮かべるだけで娘は全身が震え、山道を歩く足元がおぼつかなくなった。


魍魎とは、人の念から生じた化物だ。

蒸気機関車が走り夜をガス灯が照らすこの時代に、日暮れの闇が薄れつつある今もその化物は変わらずに存在していた。時に昔話の鬼として、妖怪として、怨霊として、様々な名を人に付けられながらも魍魎は居た。


精気を吸い、人に憑き殺すそれは実体化すると怪異を引き起こした。実体化する前の魍魎は、人の目には視えない。視えないが、実在するし生きた人間に害をなす。

霊力の高い者は実体化せずとも存在を感知することが出来るが、退治できるかどうかはまた別の話である。

娘には魍魎が実体化しているいないに関わらず視えるが、祓える自信など微塵もなかった。むしろ憑き殺されて実体化の糧にされる未来しか見えなかった。

老人が良い話を持って来たと嬉々として語った嫁入りの話も、魍魎の話が出て来た時点で走ってその場から逃げ出した。

全力で駆けて逃げたが、結局はこうして捕まり連行されている。


「……ぅぐ、うぅぅぅ〜〜ッ」


奥歯を噛み締めながら号泣し始めた娘の呻き声に、慰めの言葉をかけてくれる者はいない。今の娘に出来ることは、縄で引かれながら老人の後をヨロヨロついていく事しか残されていなかった。








(──どうしてこんな事に?)

無理矢理に着せられた白無垢の袂を眺めながら項垂れる。

普段は下ろしているだけの黒髪を結われ被された綿帽子が岩のように重く感じ、娘は溜息を吐き出した。


見合いも結納もすっ飛ばし結婚と相成った、花婿の両親と花嫁の親代わりという体の老齢の男だけで挙げられる人前式を持って若い二人が夫婦となろうとしていた。


ひとつ珍妙なのは、花嫁が狐面を被っていて素顔が隠されている事であった。

面の糸目は笑っているようにも見えるが、その下の顔はこの世の終わりとばかりに荒んだ目をして表情が抜け落ち絶望感に満ちていた。

狐面が隠していなければ、白無垢を着ているのにお通夜の様相となっていたであろう。


娘が振り返ってみれば、実にままならない半生だった。父の顔は知らず、母には疎まれ、家畜同然の扱いを受け、見知らぬ老人へと売られ、そして果てには祓い屋の男の元へ嫁ぐ事となるとは。

己の不運さを嘆き呪ってみても、虚しさが募るだけである。


縄で拘束され嫁ぎ先へと引き摺られる道すがら、娘は老人から嫁入りさせられるに至ったあらましを聞かされた。

魍魎を退治することを生業としている祓い屋の岩切という家が、廃業を避ける為に嫁を探している。


警察組織の中に魍魎退治を専門とした魍魎対策部が設立されてから祓い屋はその数を減らし、厳しい規則のもと警察の監督下に置かれることとなった。

その規則の一つに、祓い屋の家督相続は既婚者に限るというものがあった。伴侶無き者は家を継げず、祓い屋を続ける為には嫁や婿を取ることが必須となっていた。


さらに岩切家は祓いの人手が少なく、父母も年を重ね引退を考えている為、ただ嫁入りしてくれるだけでなく魍魎を退治出来る祓い手としての働きを担ってくれる嫁を探していた。

しかし実体化する前の魍魎が視える霊力の持ち主で、今や警察に仕事のほとんどを奪われている先の無い祓い屋に好き好んで入る者はいない。安定した給金や保証を求めて大半が魍魎対策部に入る。

代々稼業としやっていた家ですら祓い屋を畳み、子供を魍魎対策部に入れるところがほとんどだった。


その為、嫁探しは非常に難航、どころか完全に絶望的であった。

それを旧知の仲である老人が「紹介料を出すならば適任の娘を連れてくる」と安請け合いした。藁にも縋る思いである家の父母はその話に乗り、かくして狐面の娘が差し出されることになった。


(ああ、私の人生も終わり。出来もしない魍魎退治をさせられて死ぬんだわ)


三献の儀へと移っていくのを他人の式を眺めるような気持ちで眺めながら、娘は己の不幸な人生を心の中で嘆いた。

艱難辛苦に満ちていた、最後まで運の無い自分の人生。金で買われて祓い屋の嫁となり、魍魎の餌となって幕を閉じるのだ。


絶望と諦めで暗澹たる心持ちで、杯の酒を飲む花婿を見遣った娘は自分の夫となる男の顔を見て狐面の下で目を見開いた。

無言で杯を娘の前に置いた花婿は、娘が自分を狐面の下から凝視していることに戸惑いながら「一口だけでも……いや、ふりだけでも飲め」とぶっきら棒に小声で言った。


娘は返事も出来ず、ふるふると小刻みに身体を震わせた。

自分の不愛想な言い方や見た目が怖がらせたか、もしくはこの結婚が嫌で絶望に打ち震えているのだろうと花婿は娘の事を気の毒に思ったが、娘が震えていたのはまったく違う理由であった。


(──人生終わりだなんて、とんでもない!この方の花嫁になれるなんて、死んでもいいくらいの僥倖!!)


花婿の顔を見ながら、娘は喜びに打ち震えていた。

しかし花婿は娘が歓喜しているなどとは露知らず、この結婚が嫌で三献の儀を進めずにいるのであろうと娘にまた小声で杯をすすめた。


「嫌かもしれねぇが、ふりでいいから飲ん…」


「嫌なんてとんでもない!喜んで!!」


花婿が言い終える前に大声で返事をし、娘は狐面を押し上げ口元だけ出すと杯の酒を勢いよく呷った。


「不束者ですが、どうぞ宜しくお願い致します!末永く!幾久しく!」


三つ指どころか掌までつけてほぼ土下座で叫ぶ花嫁に、花婿も舅も姑も、呆気に取られてただ娘の綿帽子を見つめた。無言で口にこそしないものの絶望したような暗く陰惨な雰囲気を放っていた花嫁の突然の変わり様に、驚いて誰も言葉を紡げない。

ただ一人、老齢の男を除いて。


「いやあ、めでたい!これでお宅の祓い屋稼業も安泰ですなぁ。それでは紹介料の方を」


揉み手ののちに両手を差し出し、老人は満面の笑みを浮かべた。

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