三つ目のお願い

よしお冬子

三つ目のお願い

 その日は会社の忘年会という、決して楽しくも嬉しくもない酒宴が行われた。

 杉田は三十になったばかりで結婚はしていない。一人暮らしをしているワンルームマンションに帰っても特にすることもないし、明日は休みなので、一人で二次会と洒落込むことにした。

 忘年会でたまったストレスの発散という名目である。ちょっとお洒落なバーにでも入って、美味しいお酒をゆっくり楽しもうと、真冬の冷たい風にあぶられながら、夜の街をゆっくり歩き続けた。

 大通りから一筋二筋、奥に入ると、ぽつりぽつりと小さな店の灯りが目に入ってくる。さてどの店にしようかと杉田は歩を進めた。

 …ふと、一つの店が目に留まった。良い意味でありふれた雰囲気の店…レンガっぽい外装。丸窓のついた小洒落た木の扉には、店の名前が焼き付けられている。

『The Third…か。…ま、これぐらいの店が丁度いいか。』

杉田は小さく笑い、ドアを引く。ドアベルがカランと乾いた音を立てた。

『いらっしゃいませ。』

狭い店内に男性の声が響く。バーテンダー『らしい』服装の、痩せぎすの中年男。顔つきは神経質そうな、細くややつり目が印象的なシャープな顔立ち。だが声色や身のこなしは柔らかく、やや人見知りの杉田でも緊張することなく、ごくごく自然に、促されるまま、上着を脱ぎカウンター席についた。ラミネート加工された小さなメニューがいちおう置かれてはいるが、杉田はそれを右へ除けた。BGMはジャズであろうか。これもまた、杉田が思い浮かべる『ありふれたバー』にどんぴしゃりだった。

『そんなに強くない、飲みやすいカクテルで、何かおねがいできますか。』

『かしこまりました。…どうぞ。』

バーテンダーが差しだした熱いおしぼりを受け取り、手と顔を拭く。気持ちよさそうに、ふーっとため息をつく。

バーテンダーはカクテルの用意をしつつ、杉田とは目を合わさないまま声をかける。

『忘年会帰りですか?』

『ああ、はい。そう言う人って多いんでしょうか。』

『ええ、忘年会で気疲れして、こちらで飲み直し…という方がよくお見えになります。』

自分だけじゃないんだ、みんなも頑張ってるんだな…と思うと、杉田は少し気持ちが軽くなるのを感じた。多少酔いが残っているせいなのか、舌の滑りが良くなり、さらに話しかける。

『ところで、お店の名前、何か由来があるんですか?』

 杉田の言葉に、今まで下を向いてカクテルを作っていたバーテンダーが一瞬手を止めて、顔を上げた。

『はい。The Third…みっつめという意味ですが、私の好きなフランスの童話から取ったんです。‟三つのお願い”っていう。』

また視線を落として作業を続ける。

 ――三つのお願い。ある日突然神様が現れて、貧しい老夫婦に何でも三つだけ、願いを叶えてくれるという話だ。一つ目はおばあさんがソーセージを願い、二つ目はくだらない願いで貴重な願いを使ったことに怒ったおじいさんが、そんなソーセージ鼻にくっついてしまえと言ってしまい、最後の三つめはそれを取る願いをせざるを得なくなる、という話だ。

『あと、猿の手っていうちょっと怖い話もあるんですが、ご存じですか?』

『えっと…確か亡くなった息子が死体で戻って来たって話ですよね?』

『そうです、それも三つの願いが叶う話で、結局最後は亡くなった息子を墓に戻すという、‟なかったことにする”という願いで話が終わるんです。愚かだけど、人間らしさが凝縮されていると思いましてね。どうぞ。』

コトン、という音と共に、薄いレモン色の、綺麗なカクテルが杉田の目の前に置かれた。

 それを一口含むと、さわやかなレモンの風味が広がり、スッと喉に流れていく。美味しい。杉田が想像していたよりずっと美味しかった。この店は当たりだな、また来よう…そんなことを思いつつ、さらにバーテンダーに話しかけた。

『三つのお願いですか。もし本当に、そんなことがあれば困りますね。欲しいものは山ほどあるけど急に言われてもって…。それに、やっぱり制限ってあるんでしょうね。叶えてもらえない願いというか。あ、これ、凄く美味しいです。』

美味しくてごくごくとグラスの半分ほど一気に飲んでしまった。そこでふと、勿体なくなり、もっとゆっくり味わって飲もうと一旦グラスを置いた。

『例えば…自分を魔法使いにしてくれとか、願い事を百個ぐらいに増やしてくれとか。』

『…ありがとうございます。ふふ、そうですね、それじゃあ物語にならないからでしょうけど…。』

バーテンダーはあれこれと作業をしながら杉田に応じる。

『もし、本当に何でも、制限なく叶うとしたら、…お客さんなら何お願いしますか?三つだけ、と言われたら。』

 そう言われて、杉田はぼんやりと考え始めた。

 ――まず金かな。ジャンボ宝くじ一等前後賞が当たりますように。次は…仕事が楽しく…?いや、金が手に入れば仕事なんて辞めちゃうな。だったら、大金を持った故の厄介ごとがふりかかってこないように。それから三つ目、最後の一つは…。

 そこまで考えた時、バーテンダーは杉田の方に向き直り、すっと無表情になった。それからぞっとするような冷たい声で言った。

『おかしいと思いませんか?突然、何でも三つ願いが叶うなんて。』

『えっ』

『仮に真面目に生きて来たとしても、もっと真面目に生きているのに報われない人生を送っている人なんて山ほどいるのに。突然自分が選ばれるなんて、それは本当に神様なんでしょうか。』

 さきほどまで杉田の体を包んでいたふわふわとした気持ちよさが、潮が引く様に冷めていく。じわじわと足下から冷たい恐怖感が上がってくる。

 同時に頭が冴えていくのを感じつつも、杉田は、いやこれは逆に酔っぱらって幻覚でも見ているんだろうかと混乱しはじめた。

 バーテンダーは続ける。

『悪魔の気まぐれか、もし神様だとしても、それは愚かな人間に対する試練でしょう。身の程をわきまえて、願い事を‟なかったこと”にすれば良し、もし人間にない魔力だの何だの、身の程知らずの願いを言えば、とんでもない罰を与えるんです。…いや、事実願いは叶っているんですから、因果応報と言うべきでしょうか…。』

 そこまで言って、バーテンダーは目を伏せた。あまりにつらそうな声色に、杉田は何も応えられない。グラスを握っている指に、水滴が流れ落ちてくるのをただ見つめていることしかできなかった。

 どれほど沈黙が続いたか…バーテンダーはふーっと深いため息をついた。唇を噛み、体は小刻みに震え、涙がとめどなく流れ落ちる。

『…昔、三つ目に、いくつでも願いが叶う魔力を願った強欲な人がいたんです。でも、そういう魔力を持つ者はもはや人間じゃないんですよね。…人間でない何かに変えられてしまって。願いが尽きてしまった後は、ただ長い長い時間を過ごすだけ。地獄のような苦しみとはこのことです。死を望んでも、人間でない何かになった身には、死なんて存在しないんです。元に戻せと願っても、消えたいと願っても、それだけは何故かできない。ずっと、ずっとこの苦しみは終わらないんです。だから…。』

 バーテンダーは混乱する杉田の手を突然力強く掴み、半ば叫ぶように言った。

『三つめの願いで、どうか…私という存在を消してくれと願ってみてくれませんか。お願いします、頼みます、どうか…どうか!』

 そこで杉田は我に返った。危うくこの男の話を信じそうになっていた。

 ――馬鹿馬鹿しい、こんな荒唐無稽なおとぎ話を。ほどよい感じの店だと思っていたが、なんだこの店は。この人は頭がおかしい。狂ってる。とにかく無事にやり過ごして、何とか逃げ出さないと。それにはどうしたら良いのか。

 話を合わせて、言われるようにするしかないではないか。

『き、消えて、なくなれー!えーい!…なんちゃって、ハハハ…。』

 杉田の手を強く掴んでいた、バーテンダーの力がふと緩んだ。その途端、突然ぐにゃりと世界が歪み、闇に溶けていく。

…ありがとうございます。

 暗闇の中で、バーテンダーの声が響いた。安堵したような、やわらかい声色だった。


 杉田が自宅のベッド目覚めたの時には、午後1時を回っていた。休みの日で本当に良かったと思いながらも、洗濯だけはしないとな…と体を起こした。

――そんなに飲んだ覚えはないけど、忘年会で酷く酔っぱらってしまったんだろう、疲れがたまっていたのかな。変な店に入る夢を見た。妙にリアルで、気持ち悪い夢だったな…。

 そんなことを考えながら、うーん、と体を伸ばした時、ふと、床の上に何か落ちていることに気付いた。

 それは、買った覚えのない三枚の宝くじだった。

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