第13話 「見えないんだよ」
「何をしているんですか!」
ドゴンッと。何かが壊れたような音と共に、慌てたような女性の声が男子トイレに響く。右手を伸ばし、刃が出ているカッターナイフを躊躇することなく握った。
刃は月海の喉仏に当たる直前で止まる。だが、刃先が当たってしまい一粒の赤い雫が零れ落ちた。
暁音も止めるため、月海の手だけではなく刃まで強く握ってしまったため血がしたたり落ちる。
「はぁ……っ……」
「また、聞こえたんですか? 大丈夫ですよ、月海さん。やりたくない事はしなくていいんです。したくないのなら、自分の想いに従っていいんですよ。他人に従うなんて、貴方ではないでしょう?」
汗が額から大量に流れ、荒い息の中。月海は何が起きたのか理解できず、顔を隣にいる暁音に向ける。
震える月海の背中を擦りながら、彼女はソッとカッターナイフを取り、安心させるように声をかけた。
今だに息が荒い月海は、隣に立つ暁音を見るが動こうとしない。聞こえているのかいないのか。反応がないため、暁音はわからない。それでも、極力優しく、丁寧に。安心させるように声をかけ続けた。
すると、月海の息はどんどん落ち着いていき、霧がかっていた頭の中がすっきりしてくる。声もどんどん薄れていき、聞こえなくなった。
今では暁音の声の方が耳に入り、落ち着いて来る。高鳴っていた心臓も、徐々に収まってきた。
「君……。ここ、男子トイレ」
「中から叫び声が聞こえたので。鍵が壊れかけていたのが幸いでした。大丈夫ですか?」
「…………あぁ、助かったよ」
「それなら良かったです」
ホッと息を吐き、暁音は血のついたカッターナイフをハンカチで拭き取り刃をしまう。流れるように、持ち手部分を向け月海へと返した。その手からは血がまだ出ており、ハンカチを赤く滲ませる。
戸惑うようにカッターナイフを受け取った月海は、暁音の手に触れてしまった。その際、濡れた感覚があったらしくカッターナイフをポケットに入れながら彼女を見下ろした。
「手……」
「このくらい大丈夫ですよ。舐めていれば治ります」
なんてことないように暁音言い、月海から顔を逸らし手洗い場へ。蛇口をひねり手を洗い始めた。
一切顔色を変えないため、痛感がしっかりあるのかわからない。そんな暁音に顔を向けたまま、月海は眉を顰める。
「本当に大丈夫? 君は、感情が自分でわかってないから危ない」
「月海さんにそんな事言われるなんて思わなかったので驚いています」
「僕のせいで死んでもらったら後味が悪いからだよ。勘違いしないでもらえる?」
「そうですよね。知ってました。それこそ安心してください。手を切っただけでは死にませんので」
月海の言葉に驚き、暁音は目を開きながら蛇口を閉める。だが、次の言葉により肩を落としげんなりした顔を浮かべ月海を見た。
そんな目線に気づいているはずの月海だが、無視し怪我をしている暁音の手に右手を伸ばし手首を痛まないように優しくつ掴む。
「え……?」
「ひとまず、保健室に包帯とかあるはずだから行くよ。このまま放置はさすがに僕が悪人になりそうだから」
「でも……」
暁音は不安げに眉を下げ、男子トイレの入口に目を向ける。そこには、驚きで目を開き固まっている梨花の姿があった。何が起きたのか理解できず、ただただ立ち尽くしている。
月海も気配は感じているはずだが、それでも先程逃げ回っていた人物とは思えないほど堂々と歩き、彼女の前を横切った。
暁音は腕を引っ張られているため、ついて行くしかない。
廊下を引っ張られるように歩いている時、ふと。暁音は後ろを振り返った。そこには、なぜか恨めしそうな瞳を浮かべ、暁音を見ている梨花と目が合う。
その瞬間、悪寒でも走ったかのように彼女は顔を青くし、体を大きく震わせた。
「どうしたの?」
「…………あの。あの人、想いの糸は、どうなっているん……ですか……?」
前を向き直し、暁音は恐る恐る月海に問いかけた。すると、彼はバツが悪そうにボソッと呟く。
「それが、見えないんだよ。想いの糸が」
☆
「なんで。なんで、私ではなく、あっちなの? 成績とかでは負けていないのに。どうして。どうして……」
廊下を走る二人の背中を見て、梨花は小さな声でぼそぼそと困惑の言葉を呟く。
顔を俯かせ、埃で汚れている床に目を向け。口元に手を持っていき、微かに震わせた。
何度も何度も「なんで」と呟き、俯かせていた顔を上げる。だらんと両腕を垂らし、ふらふらと動き始めた。足取りが危なく、まっすぐ歩けていない。天井を見上げ、ゆっくりと歩き出した。
「なんで……。いや、なんでじゃない。私は負けているんだ。一番じゃないんだ。だから、私はいらないんだ。早く、早く。あの人をカメラに収めて、一番にならないと。なんでもいい。一番にならないと、私は――……」
見上げていた顔を、二人が去って行った先に向ける。真っ暗な道が続き、シンと沈みかえっている廊下。
「一番に、一番に……」
廊下を見る瞳は血走っており、勝機を保てていない。同じ言葉を呟き始めたかと思うと、いきなり口を両端に伸ばし笑い始めた。その声は冷たく、血の気がよだつほど冷徹だった。
「早く、見つけないと」
笑い声はすぐに収まり、静かな廊下には梨花の足音だけが聞こえる様になった。
☆
梨花から逃げるように、二人は廊下を走っていた。その際、月海がこぼした言葉に暁音が驚きで目を開いていた。もう彼女の姿が見えない後ろを、暁音は肩越しに見返す。
人影はなく、闇が広がっているのみ。光がないため、二人からでは梨花が今どのような動きをしているのかわからなかった。
「想いの糸が見えないって事は……」
「そうだね。まぁ、まだ様子を見てもいいんじゃない? 無理やり手を伸ばす必要も無い」
確認するように暁音は問いかけ、平然と月海は答える。そうな会話をしながら走っていると、”保健室”と書かれたプレートのある教室が見えてきた。
ドアの建付けは少しだけ悪く、開ける際に大きな音を鳴らす。だが、慣れた手つきで月海は開け暁音の手を引っ張り中へと入った。
保健室は普段、月海が寝るために使っているため、二個あるベッドのうち窓側にある方は綺麗に整頓されている。隙間風がベットを仕切っている破れた白いカーテンをかすかに揺らしていた。
少しだけ息を切らしている二人は。保健室を見回しその場に立ち止まる。だが、すぐに月海が暁音の手を自身の前に引っ張り、ベットに促すように言う。
「あのベッドに座って」
「なんで、こんなに綺麗なんですか?」
「僕が使ってるから」
「納得です。教室でずっと寝ているわけではなかったんですね」
月海の手から離れ、ベットに座りながら暁音は何かを探している月海を見る。
彼は薄汚れてしまい、白かったはずの棚へと近づき扉を開けた。中は沢山の物が入っているわけではなく、必要最低限しか入っていない。その中から、まだ使えそうなガーゼや包帯などを手に取り棚の扉を閉めた。
「痛かったら言って」
「今の段階で大丈夫なので、問題は無いかと」
「あっそ」
棚から応急処置用の道具を取り出した月海は暁音の前にしゃがみ、優しく彼女の怪我している手を掴む。
手のひらを開くように口にし、暁音は言われた通りに手を開いた。その手のひらはぱっくりと切れており、傷口から血が流れ出る。そのため、暁音の手は真っ赤に染まっていた。
月海はそっと手で触れた後眉をひそめた。暁音の手に触れている月海の手にも血が映り、少しだけ赤くなっている。それを感じ取り、血の量を大体把握した月海は先程よりより深く皺を寄せた。
浅く息を吐き、準備していたガーゼでまず止血をし始める。消毒液がないため、圧迫止血をしてそのまま包帯を巻く。その手つきも慣れたものでテキパキと巻いており、直ぐに完了した。
「きつくない?」
「…………大丈夫そうです」
動きを確認するため、暁音はグーパーと動かす。動かすのに支障がなく、彼女は大丈夫と返した。
返答を聞いた月海は立ち上がり、余った包帯などを再度棚へと戻し始める。何も話さず、淡々と片づけていた。その背中はいつもより小さく見え、暁音は自身の手をさすりながら平坦な言葉を言った。
「ありがとうございます」
「僕の責任だから。礼はいらない」
棚に戻し、扉を閉じる。ペタペタと、足音を鳴らしながら暁音が座っているベットに向かい座った。
どちらも口を閉ざし、何も話さない。カーテンが揺れ、外の風が旧校舎を囲っている木を揺らす。
無言の時間が進む中、最初に口を開いたのは暁音の問いかけだった。
「…………月海さんは、もう一人の月海さんになっている時の記憶は、無いんですね……?」
「いきなりだね。まぁ、今の君の質問に答えるとすると、答えはイエス。何をしているのか予想は出来るけど、記憶自体はないから憶測しかできない」
「知りたいと、思いますか?」
「それを聞いてどうするつもり? 何か変わるの? 君が何か出来るの?」
「…………すいません」
「謝るくらいなら最初から言わない方がいいよ。まぁ、僕的にはどっちでもいいけど。聞きたいなら言うし、どうでもいいなら言わない。でも、聞いたとしてそれは君に対して有力な情報ではないのは確実。君の頭の容量もしっかり考えてから聞きなよ」
月海からの怒涛の返答に暁音はあえて何も返さず、ジトッと彼を見ている。
そんな視線など何処吹く風。彼はそっぽを向いて、空を眺めていた。
「…………はぁ。ひとまず今のは後にして──」
顔にかかっていた髪を耳にかけ直しながら、暁音は話題を変えようとした。だが、その仕草を感じ取った月海は、いきなり左手で暁音の口元を抑える。目線だけを月海に向けると、彼はドアに顔を向けていた。
「来たみたいだね」
彼の言葉に少し驚き、暁音は目を開いた。すぐに月海と同じくドアへと向き、何があっても動けるように備える。
二人が待っていると、廊下からどんどん大きくなる足音が聞こえ始めた。
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