5章:薫風 第4話

 駿河沖を通過して、春真っ只中の太平洋沿岸を桜前線とともに磐手は北上し、海の匂いが懐かしいものに変わると、嵩利は昼食のあと、落ち着かなさそうに士官室を出て上甲板へあがった。


 舷傍で素早く海を見渡し、くるりとからだを捻らせて止める。双眼鏡をのぞくと、その丸い視界のなかに、くっきりと江ノ島がみえている。国外へ出ているときよりもむしろ、国内で艦隊行動をとっているときの方が、ともすると郷里恋しさが沸いてきてしまう。


 「相模の海だ…」


 舷の手すりにへばりついて、じっと双眼鏡を覗きつつ、郷里を想っていると、不意にそれが取り上げられる。


 「こんな所に居たのか。食事が済んだら、書類の整頓を手伝う約束だろう。忘れたとは言わせんぞ」


 頭上から降ってきた声は、別に咎めるわけでもない、穏やかなものだった。嵩利は僅かに肩を震わせた。だが、鷲頭が直々に探しに来たというのに、振り向きもせず、じっと海へ、その先へ切ない視線を向けて黙っている。


 「横須賀へ着いたら、五日間休暇が出ることになっている。その間に行って来給え。…もっとも、書類の引渡しがうまくゆかねばその分、休暇はお預けだが、まだそうしているつもりか」


 隙だらけの脇のしたへ腕をすべりこませ、体をゆるく抱きとめながら、嵩利の耳許へ囁きかける。もちろん今、この後甲板に誰も居ないのを確かめての行為である。


 「艦長…」


 この数日、郷里恋しさだけではない、磐手を離れることは、鷲頭の副官を離れることであり、次の三笠で同じ乗組と言っても、今までのようにはゆかない。それに、もうひとつずっと心に引っ掛かっていることがある。それらが相まって、嵩利は憂いのなかにいた。


 「そんな顔をするな。さあ、公室へ来なさい」


 腕のなかで、こちらを振り仰いだ副官の表情を酌み、鷲頭は口許をほんの少し笑ませて、やさしく促した。


 鷲頭は、嵩利が三笠へ転出になったことを何よりも喜んでいた。何しろ、例の会合の際、呉鎮守府司令長官である城内が、本当にあのあと人事局長宛てに推薦状を送りつけて、嵩利を秘書官へ引き抜こうとしたのだ。


 大演習のために、嵩利が守本に頼まれて短艇競技の監督に出ているあいだ、実際鷲頭は城内との攻防に追われており、むしろ嵩利が他所へ引っ張り出されていて好都合であった。


 まったく、海軍中将とあのように稚拙で、馬鹿馬鹿しいやりとりをするところなど、誰にも聞かれたくも見られたくもなく、また、思い出したくもなかった。


 軍務に関して私情を挟んだのは、後にも先にもこのとき限りと、呉鎮の加藤参謀長が、城内長官の挙動に対して言葉を濁すのを、半ば脅すようにして聞きだし、あの日、城内が嵩利の唇を盗ったことが発覚したとき、鷲頭は何をしてでも嵩利を呉へは行かせないと、決意したのである。


 磐手の大演習での目覚しい活躍、短艇競技の圧倒的勝利が決定打になって、人事局も無視ができなかった。城内の推薦を今回は見送って、嵩利を含む若手士官をこぞって軍艦稼業へ就かせることにしたのは、全くの幸いであった。


 言うなれば、嵩利は知らず、己の身の危機を己が手で救っていたことになるのだが、鷲頭はこれについては一切何も言わずに、自身の胸にしまっておくつもりでいた。


 「艦長は、休暇を取られないのですか」


 公室で、もう殆ど終わっている書類の整頓の仕上げをしつつ、ぽつりと嵩利は零した。黒い綴じ紐を指さきに絡めて弄りながら、ちらりと執務机を見遣る。


 「五日取れるかどうか、わからんな。私は引継ぎがあるから、一日は確実になくなるだろうが。ん…どうした?」


 言いながら副官へ顔を向けると、何かを堪えるような顔をして、こちらを見ている。鷲頭は訝しく首を傾げた。


 「ぼく、艦長に謝らなければならないことがあるんです。だから、その…できれば休暇を取って頂きたくて」


 あのことだな―。


 「城内長官のことだろう」


 「え…」


 「きみが謝ることではない。あの人は悪気がない分まだ周囲に黙認されているが、私から言わせれば無節操極まりない振る舞いが甚だ多い。そのような怪しからん人物のもとへは、きみを遣れぬと、そう言っておいた」


 「か、艦長…」


 「―千早くん、鎌倉へ連れ出してくれる気があるのなら、猶予はあと三時間しかないぞ。でなければ私は今回、雲隠れをする機会を失うことになる」


 忽ち顔を真っ赤にして俯く嵩利。鷲頭はそっとため息を吐いて、とん、と黒表紙の書類綴りを机のうえで揃えながら、僅かな甘さに擽られるのを感じる。いまが公務中でなければ、思い切り抱きしめてやりたかった。

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