5章:薫風 第3話
競技が始まると、海上は一層賑やかになる。応援に出たボートは嵩利たちだけではなく、他の艦隊からもわんさと海へ漕ぎ出ているから、邪魔にならぬようにコースの外側からうまく回って、チームへ声援をおくる。嵩利は索具を掴んで均衡をとりつつ、舳先から身を乗り出すようにして、良く徹る澄んだ声を張り上げている。
「おいッ、気をつけろ!落ちるぞ」
「これでも漁師の親戚だぜ、船から落っこちたことなんかないよ」
船尾で日の丸を振りながら、守本は嵩利の危なっかしい姿勢に、ついつい声をあげる。しかし注意されても嵩利は悪戯っぽく笑い返してくるだけで、効果がない。
いま嵩利たちは、少しばかり技量に差があった二番中隊が心配で、励ましにやってきているわけだが、いまのところ先頭のようであった。
「―二番艇ッ、距離五〇〇ッ、旋回点、注視して進入角度とれェ!汐が引いているから気をつけろ!」
短艇の舵柄に座る艇長が、嵩利の声に答えて、漕ぎ手に指示を与えている。いくらブイが海底からしっかりワイヤーで固定されているといっても、海上である。汐の干潮に多少の位置ずれが生じるのを見極める、それが重要なのだ。
「よし、二番隊は大丈夫だな」
確信を得たような笑顔を臨時応援団へ向けると、守本以外は同意を示すように頷いてくる。
「貴様が海へ落ちやせんかと気になって、応援どころではなかったぞ、まったく―」
「小言ならあとで幾らでも聴くよ。いまは磐手の猛者を応援するんだから、なっ。面舵、終着点へ進路とれェ」
軍帽の顎紐をきゅっと締めなおして、嵩利は笑いながら守本の苦言を制する。
舳先で胡坐をかいたまま、面を引き締めて進路を指し示す、その様子はまるで郷里の海へ漁に出ているときと変わらない。士官にあるまじき奇態であるのに、ふしぎと惹きつけられるような、触れがたいような雰囲気を帯びていた。
「おぉっ、凄ェ歓声だな」
終着点を遠巻きにして、各艦隊のボートがひしめいていたが、嵩利たちが着いていくらもしないうちに、先頭の短艇がすッと最後のブイを通過して、十二本の櫂がさッと艇の縁に立つ。
わあッ、とひと際大きな歓声が、うしろからあがる。うしろに浮かべる“真鉄のその城”は勿論、磐手である。最も心配していた二中隊が一位をとったとなれば、あとの三隊が他の艦隊に負けるはずはなく、北国で鍛えられた将兵が一丸となった北方警護艦隊が、今期大演習、短艇競技を制覇したのだった。
それから、艦へ帰ったあとが大変だった。勝った隊員を乗せた短艇が、山ほど賞品を積んで戻ると、お祭騒ぎは最高潮に達した。
艦上に嵩利と守本が戻ってくるのを待って、下士官達がふたりを担ぎ出し、―文字通りかれらの肩に担ぎ上げられ―後甲板まで連れて行かれる。士官は士官で結託して、艦長の鷲頭を引っ張り出してきており、参謀長の音頭で三人が一斉に艦上で胴上げされた。
夜になると、待ってましたとばかりに支度が始まり、艦内挙げての宴会となり、大騒ぎをやらかしたがそれは度が過ぎぬ程度で、誰もが気持ちよくこの喜びを味わい、わかちあった。
磐手の乗組は、この大演習で一躍脚光を浴びて、これから半月後に春の人事を迎えるのだが、艦長である鷲頭の進級が、誰より何より関心事であった。
―辞令。四月一日付、海軍少将鷲頭春美。第一艦隊旗艦三笠参謀長転出―
この辞令が磐手へ飛んできたとき、艦内で轟くような歓声があがったのは言うまでもない。しかも、誰が人事を執ったのか、磐手乗組のほぼ全員が、三笠へソックリ異動になることまで、発令されている。
嵩利は少佐に進級して、三笠の砲術長。守本も少佐に進級。三笠の航海長にそれぞれ転出が発令されていた。
苦楽を共にした艦と別れるのが、これほど寂しいとおもったことはない。と、このとき磐手に乗りこんでいた将兵は、後年誰もが口に出すのだが、ともあれ、磐手ひきいる艦隊は佐世保を出航し、残り僅かな航海に出た。
新たな乗艦、三笠を旗艦とする第一艦隊が、横須賀で待っているのだ。
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