5章:薫風 第1話

 あの会合に嵩利を連れ出すことについて、鷲頭は葛藤で夜もねむれぬことがあったほど、考えていたのだが、こうして一夜明けてみれば、その悩みが杞憂におわったことに気づく。


 旗艦磐手の艦橋のうえから、右舷で行われている短艇訓練の様子を督励している。勿論、嵩利が編成した隊の先頭にいて、水を得た魚のように生き生きと指揮を執っている姿も見える。


 いま鷲頭の隣には、舞鶴鎮守府司令長官、藤原格中将がいる。舞鶴から乗ってきた艦が、磐手の隣に停泊しているから挨拶をしに来た、という理由で、その実、昨夜あまり会話をかわせなかったため、暇を盗んで訪ねてきてくれたのだ。藤原は奥州出身で、北国人特有の粘り強さと、厳しい冬を耐え抜くように、すべてに於いて我慢強い頼もしさを備えている人物である。


 何か話をするといっても、もともと無口な藤原と鷲頭だけに、語る量というのはそれほどない。ふたりで揃って並んで艦橋に立ち、艦の乗組全員へ目をむけている鷲頭に代わって、藤原は目を細めつつ鷲頭の寵児を見守っている。


 「おーゥ、かっついだな」


 双眼鏡を覗きつつ、低い声で呟く。


 藤原が無口なのは、性格だけでなく、ことばにも原因がある。東京弁で話をしていても、その抑揚が奥州訛りそのものだけに、慣れないと聞く側はすこし当惑してしまう。それは第二公用語の英語についても同じで、本人は完璧に英語を解せるにもかかわらず、通訳をつけてもらっている。


 「きみのところにひきかえ、私が乗ってきた出雲の連中は、のんびりしたもンだ」


 別に艦長の鷲頭が、短艇競技に出場する乗組の尻を叩いたわけではないのだが、どうも磐手には、妙な団結がうまれているらしかった。


 秋冬の間、艦長に対する静かな敬意が拡がるとともに、いつまでも艦にとどまらせておくわけにはいかん、大演習で成果を出して、鷲頭艦長を提督にして磐手から送り出してやらにゃいかん、といった総意で乗組は張り切っている。


 そんな意図などもちろん知らない。が、ある意味では鷲頭はいま軍人としてもっとも幸せな時期を送っているのかもしれなかった。


 嵩利の隊が、守本の隊を抜いて、喝采が上がる。


 大湊で陸上勤務が多かったのに、嵩利は天性のものか、海と人との息の読みがうまい。海上勤務が長く、且ついまは航海副長の守本は悔しがった。が、それは妬みや僻みからのものではなく、ふたりの指揮官は短艇を指揮しながら、快活に笑いあっていた。


 「いつまでも、このような海軍であってほしいものだ…いや、あらねばならんな」


 「藤原長官の仰るとおりです」


 かれらが艦長を務めるころも、このような光景が見られるように、道を作ってゆかねば。無口な上官ふたりは、そのおもいを眼差しで伝えあう。


 磐手の短艇訓練は、大演習観艦式の前日、夕刻まで続いて、艦内は高揚した戦意を保ったまま、夜を迎えた。食事が済んだあと、嵩利と守本は艦長付きの従兵に呼ばれ、艦橋下の艦長休憩室に案内される。


 それからすぐに、あすの短艇競技の各艇長をつとめる下士官たちもやってくる。顔を見合わせて、首を傾げているところに、鷲頭が酒保にことづけしてくれたらしく、従兵が酒を運んできた。訊けば、水兵たちにも振舞われているようだ。こういうときは遠慮せず、ありがたくいただいておくに限る。守本が杯を配って、ささやかな宴にうつる。


 「千早、貴様があんなに艇の扱いが巧いとは、見直したぞ。艦長には悪いが、副官にしておくのは勿体ない。海大でも成績が良かったんだ、砲術も巧いしな。少佐になったら表に出して貰えよ」


 守本はそう言って、白状し始めた。ともすれば自身の半分ほどしかない小柄な嵩利が、その見目の良さを買われて、副官をやっているのだろう、と侮って見ていた部分があったのだと。


 武術が得意な守本は、まっすぐな男らしい性格をしている。こうして素直にあたまを下げ、且つ他人のよいところを裏もなく讃えるところは、なかなかできることではない。下士官らも頷いて、千早副官が他所の艦隊に居らんでよかったです、などと言って持ち上げてくる。嵩利は耳のうしろがむず痒くなって、満たされた杯をいっぺんに干す。


 今更、気炎をあげるわけでもなく、改めて我が艦隊の勝利を誓いあうわけでもない。肝の据わった男たちは、明日のことは話題にせず、気持ちよく酒を酌み交わして、春の夜はゆっくりと更けていった。

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