1章:告白 第8話

欧州への遠洋航海訓練は、順調に日程を経て、英国へひと月、仏蘭西へふた月滞在し、その間は候補生だけでなく、尉官佐官も初心にかえったようであった。


 洋書を買いこむ者、仏蘭西海軍の士官と交流を持つ者など、それぞれだった。嵩利も書店で二、三冊は本を選ってみたが、ひとと話すほうがすきだったから、毎日のように港町へ出かけていった。


 あれから―鷲頭に告白をしてから、半月ほど過ぎていたが、特に何も変わらない。わずかに許された私的な時間に艦長室へ訪ねて行っても、いつも話すのは嵩利で、鷲頭は穏やかな聞き手である。


 敢えて嵩利へ触れぬようにしているのか、あの日のケーアイは何だったのかと問いたくなるほど、その先に続く行動を、まったく起こす気配がない。


 隣に座っていて、そっと膝や腕に触れるくらいは、あってもいいのに、と嵩利は可愛らしいことを考えているが、当の鷲頭はそれどころではない。日々、穏便かつ綿密に、いつ、どのようにことを始めるか、僅かな暇を縫って考えている。


 普段こそ謹厳で、ともすれば石部金吉かと疑われることもあるほど、その筋の噂を立てたことはない。噂が立たないだけで、鷲頭はかなり目立たぬところで漁色を好んでいる。それも、娼妓や芸妓が相手ではない。


 今まで、幾人も―両手で数えるほどだが―の士官に手を付けたことがある。爛れた関係を持つことはなく、一度きり、秘め事として双方の胸にしまっておく、というのが決まりになっている。


 例外として、淡い想いを寄せて二、三度抱いた者もいれば、双方同意のうえで航海中限定、と性欲の捌け口に交わった者もいた。


 手は出すが、けして早い方ではない。だがそれも相手を焦らすために計算しているわけではなく、一夜をどう過ごすか、真剣に考えて悩むせいだからだ。


 特に今回の副官は、鷲頭へ純粋な好意を寄せているだけに、どう対処するべきか、悩み抜いている。


 漁色をするくせに、そういう時だけ奔放になるということができない、不器用な性格であるが、そこが鷲頭を鷲頭たらしめている部分であり、かれを知る者たちへの信頼の素となっている。


 男色を好む性質であっても、一切醜聞が表に出ない、大きな理由のひとつでもある。


 こうしているうちに、仏蘭西滞在の日々は過ぎてゆき、嵩利の日記には、軍務についてよりも、魚港で見る、地中海近海で獲れた珍しい魚について多く書かれ、上官に対するおもいも、その中の最後に、五、六行は必ず綴られていた。


 本当は五、六行どころか、一頁は綴りたいくらいで、遠洋航海訓練を終えて、日本への帰途へ着く頃には、夜ごと、鷲頭へ想いを至すばかりだった。


 ふたりきりで艦長室に居て、鷲頭が黙っていても気配でわかる。かれの温かさに包まれてゆくのを、はっきり感じ取るとそれだけで、“やっぱり、ぼくは大事にされているのかナ”とおもい、嵩利は密かに喜んでいる。


 ―でも、すこしも触れてくれないのは、どうしてなんだろう。艦長になら、ベキられてもいいくらいなのにナァ―


 海軍に入って、男色が何であるか知らぬわけでもない。それに、男色については、祖父の妙な解釈の影響を受けており、相手が尊敬に足る者であれば、誠意をもって仕えるのは当然であるが、からだを任せるのも辞さぬくらいの気持ちでいろ、それが時として、確固たる主従の絆を生むのだ、という教えが染み付いている。


 黙りこんでいるその奥で、何を思案しているのか、問い質したくなった。もう、あれから更に三月は経っている。嵩利も嵩利なりに、覚悟はできているのだ。


 「艦長」


 今日も壁際の長椅子へ並んで腰掛けている。嵩利はすこしからだを斜にして、鷲頭の顔を覗きこんだ。遠慮がちに手を伸ばして、泰然と構えた姿勢の、膝へ置いている腕へ触れ、袖口をつまんで引いた。


 膝のうえからすこし浮いた手を、思い切って取り上げて握る。鷲頭の武骨な手がすきだ。緩く握り返してくる温もりに包まれて、嵩利はそっと息をつく。


 「時々こうして、触れて欲しいです。ぼくをどうなさりたいのか、艦長にお任せするつもりでいますが、またいきなりあんなケーアイされちゃ、免疫がない身にはちょっと堪えます」


 すこし頬を赤らめて言うのを聞いて、鷲頭はふっ、と苦い笑みを浮かべる。


 「この際、不器用を承知で私に任せて、もう少し待っていてくれないか」


 頬へ触れると、ゆっくり撫でながら諭すように言う。顔つきは相変わらず厳しいままだが、目許はいつにも増して色気がある。

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